三本松(香川)日下 広太監督、初の日本独立リーグ出身指揮官として聖地へ!
8月7日(月)兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で開幕した「第99回全国高等学校野球選手権」に24年ぶり3度目の出場を果たした香川県代表・三本松。その三本松を2015年8月の就任以来、丸2年で聖地に導いた日下 広太監督(33歳)は、他の47校監督にない称号を持っている。
その称号とは「NPBを経ない日本独立リーグ出身者、初の甲子園出場監督」。では日下監督は独立リーグ時代、どんなことを考え、今に活かしてきたのか?今回は甲子園出発直前に聴いた日下監督自身の言葉と日下監督が最初に2年間所属した石川ミリオンスターズ(ルートインBCリーグ)端保 聡社長のコメントも交え、指揮官の独立リーグ時代4年間を振り返ってみたい。
独立リーグでも大事にした「真摯な姿勢」
日下 広太監督(三本松)
2006年秋、当時順天堂大4年の日下 広太キャプテンは、1つの悩みを抱えていた。それは大学卒業後の進路についてである。
三本松から教職取得を視野に入れて進学した順天堂大では強肩強打の捕手として3年春と4年秋に最高殊勲選手賞を受賞。しかし、そこはあくまでも「東都大学野球リーグ3部」での成績。本人は「将来、高校野球を教えるためにもまずは社会人野球に進みたい」志を持っていても、実現には非常に高いハードルが待っていた。
そんなある日、日下選手は2007年から「北信越ベースボール・チャレンジリーグ」(現:ルートインBCリーグ)が日本で2つ目の独立リーグとしてスタートすることを知る。
「レベルの高い野球が学べるなら、受験してみよう」。心は決まった。
ただ、迎えたトライアウト当日、日下は首を下に向けざるを得なかった。以前から決まっていた教育実習等の影響もあり、自慢のはずの肩の状態は当人いわくほど最悪。
「全く合格の手ごたえはなかった」(日下監督)それでも、合格通知は彼の下に届いた。
はたして、その理由とは……。2年後、石川ミリオンスターズから移籍した新潟アルビレックス・ベースボール・クラブで日下捕手は当時の投手コーチだった本間 忠(元:ヤクルトスワローズ)からトライアウトの舞台裏を明かされる。
「トライアウトのブルペンでベースを履く所作とかは首脳陣からすごく評価されていたぞ」。
「高校時代から当たり前のようにやっていた」野球に対する真摯な姿勢は彼を裏切らなかったのである。
「真面目で真摯に野球を取り組む姿勢があるし、リーダーシップが取れてチームをまとめていくような存在」と、そこを最も買っていたのが、日下捕手を迎え入れた石川ミリオンスターズの端保 聡社長。かくして2007年、石川ミリオンスターズに入団した日下捕手は、グラウンドばかりでなく端保社長をはじめとするフロントからも様々な「学び」を手にすることになる。
端保社長の想いから学んだ「地域代表」の意識
日下 広太監督と三本松ナイン
2007年「滑り出しは好調で『このままいけばプロは無理でも、そこに近いレベルまで行ける』と思った」
開幕矢先のけがで苦しんだ1年目。それでも日下捕手にとって学ぶものは大きかった。その1つが「地域への貢献」だ。
「入団して早々に端保社長から石川ミリオンスターズを作った想いを聴いたことが今にも活きています。三本松も東かがわ市で唯一の高校なので『地域代表』ということはすごく意識しています」(日下監督)。
実際、三本松では練習前に校歌を歌うことが通例。地域もそれに応え、春の四国大会初戦でも地元から応援バスを仕立ててアグリあなんスタジアムまで乗り込み応援。香川大会でも生徒たちと地域のみなさんが一体となって応援席から選手たちを後押しした。
「地域を代表して、香川県を代表して、敗れた他の37校のためにも闘ってきます」と語る日下監督の意気込みが常に周囲へ向けられるのも、独立リーグでの経験があってこそである。
「日本独立リーグ代表」の期待も担い、いざ聖地での指揮へ
三本松が甲子園出場を決めた報を聞き「リーグ創設11年目で違った感動をもらって、鳥肌が立った」端保社長も、そんな日下監督へ力強いエールを送った。
「選手はあなたを見ている。その中であなたのコピーを作れ!そして、甲子園で勝つことも大事だけど、甲子園も経験して立派な社会人を作ってほしいです」
このコメントに触れ「本当に嬉しいです」と話した日下監督が感謝の想いを示す場は大会第6日の第2試合。初出場となる下関国際(山口)との瀬戸内海対決で三本松は地域の期待を背負い、そして日下 広太監督は「日本独立リーグ代表」の期待も担って、悲願の学校甲子園初勝利を奪いにいく。
(取材・文=寺下 友徳)
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