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第74回 松本剛(帝京)「二度の都大会初戦敗退を乗り越え、3度目の甲子園出場は大きな価値があった」2020年08月25日
【目次】
[1]今ならばできないボール禁止月間
[2]大谷から決勝打を放ち、勝負強い選手へ成長/まだまだやれる選手。気分一新して、もう一度飛躍を
これまで多くのプロ野球選手を輩出している帝京。北海道日本ハム期待の若手・松本 剛もその1人である。高校通算33本塁打の長打力と俊足を誇る大型遊撃手だった松本は1年夏から甲子園出場を経験。二季連続で甲子園出場を果たし、順風満帆な高校野球人生に思えたが、2年夏、3年春で甲子園を逃し、その期間、コールド負けや二大会連続都大会初戦敗退と、苦しい時期を味わった。最後の夏に3度目の甲子園出場するまでどんなストーリーがあったのか。帝京の前田三夫監督に当時のエピソードについて語っていただいた。
今ならばできないボール禁止月間

高校時代の松本剛
「入学当時、走攻守三拍子揃った選手で、彼は、高卒プロのいける可能性は十分にあると思いました。なんといっても人とは違う身体能力を持っていましたからね。さらに華があった。このまま順調にいけばプロに注目されるだろうなと感じました」
1年夏、2年春に甲子園に出場。順調に一流選手の道を歩んでいたが、2年夏にはノーシードからスタートし、東東京大会5回戦でコールド負け、さらに2年秋の都大会でも3対5で敗れ、またも甲子園出場を逃す。前田監督も「苦しい時期でしたね」と振り返る。
そして一冬超えてからも都大会も苦しい戦いが続く。初戦(2回戦)で世田谷学園と対決し、0対6の完封負け。またも夏はノーシードからスタートとなる。このままでは厳しい戦いになると見た前田監督は荒療治を行う。なんと1ヶ月以上、ボールを握らせなかった。
「冬の練習そのものですね。みんな耐えてくれました。あのままでは夏も厳しいとおもっていたので、選手の気持ちを変えるしかなかった。だからボールを持たせず、持たせた時の反応を見たいと思いました。だから一ケ月以上持たせなかった。それでチームが強くなりました。今はなかなかできない。そんなことやったらみんな辞めていきますよ。」
なぜそれができたかといえば、この代の選手は2回も甲子園にいっている一方で、コールド負け、二度の都大会初戦敗退という、天国と地獄の両方を味わっているから。
「みんな大舞台、夢舞台というものを知ってるから、分かっているんですよ。これではいけないというのが。これではダメだよ、俺たちも変えなきゃ、というのがね。分かっているからできたんです。何も解っていなきゃ(つまんねえな)ということでみんな辞めてしまいますし、やらせていません」
言うならば、前田監督は選手の気質に合わせて指導をしていること。ちなみに今年の帝京は守備重視の野球だが、自発的に守備のフォーメーションについて考えて取り組む選手たちを見守るスタンスをとっている。
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- 編集長 河嶋 宗一
- 出身地:千葉県
- ■ 現場第一主義。球児に届けたい情報とあれば日本だけでなく海外まで飛び回る。
- ■ 編集長であり、ドットコムのスカウト部長と呼ばれ、日本全国の隠れた名選手を探索。
- ■ 幅広いアンテナと鋭い観察力でダイヤの原石を見つけだす。
- ■ 編集部の理論派として、今日も球場に足を運ぶ。
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