国士舘vs岩倉
見ごたえのあった強豪対決、国士舘が執念のサヨナラ勝ち
ファウルで粘った真崎君が、最後にサヨナラ犠飛
1回戦屈指の好カードの一つといってもいいであろう。
1984年のセンバツ、初出場初優勝も歴史のかなたのこととなりつつある岩倉。しかし、その伝統と実績は背負っている。一方国士舘も、90年代には“春の国士舘”といわれるくらいの存在だった。96年からは3年連続出場もあり、91年と93年にはベスト4にも進出という実績もある。その時の指揮官だった永田 昌弘監督が、系列大の監督を勇退して、この秋から高校野球の現場に10年ぶりに復帰した。「自分で作ってきたチームではないんで、どういう意図で作られてきたのかということを把握しきれていないところもあります」とも言っていたが、それでも、最後は国士舘が一死満塁から意地を示して、5番真崎君の左翼への犠飛で執念のサヨナラ勝ちで2回戦進出を果たした。
国士舘は186㎝の長身深澤 史遠君、岩倉は164㎝の三田君という身長差20㎝の投手対決となった。深澤君は長身を利した投げ下ろしというよりは、少しヒジが下がっての投球だが、やはり角度はある。三田君は思い切りよく腕を振って投げ込んでくるが、ショートバウンドするくらいの低めを意識してのスライダーが武器。もっとも、コースを狙いすぎたところもあったのか、3回までで5四球はやや球数を多くしてしまったようだ。
3回に岩倉は7番森本君の二塁打と続く倉光君の左前打で、無死一三塁を作りながらも、深澤君に併殺で抑えられて好機を逸した。国士舘も、1~4回まで毎回四球か失策で走者を出しながらも、三田君がしっかりと踏ん張った。
そして迎えた5回、国士舘は失策とバント、内野ゴロで二死三塁として、故障上がりということもあって、途中から4番に入っていた山本君が左前へはじき返して先制した。
しかし、岩倉もすぐに反撃。6回に一死後1番山田君が中前打で出ると、併殺を焦った内野の失策と、3番涌井君の右前打も出て一死満塁。ここで4番加藤広大君が中前打で2者を帰して逆転した。なおも、一死一三塁となりそうな場面だったが、ここは国士舘の中堅手真崎君が好判断で三塁へ送球して刺した。このあたりの冷静さはさすがである。これが、結果的にはその後に生きることになる。
岩倉・三田君
その裏すぐに国士舘はやや不用意に得た四球の上原君をバントと内野ゴロで進めて二死三塁。ここで、6回から深澤君をリリーフして9番に入っていた石井君が左前打して同点とした。このあたり、試合後に岩倉の豊田浩之監督は、「同点にされ方が悪かったですけれども、その前の守りでセンターが三塁で刺した判断の良さなど、一つひとつのプレーの質の高さが相手の方が勝っていたということでしょうか」と、残念がった。
そして、結局2対2で延長もありかなという雰囲気にもなってきたところで9回、国士舘は一死後に2番内藤君が右線へ三塁打。迷うことなく三塁へ走った好走塁も光ったが、このあたりは、ファウルグラウンドの広い立川球場ということも十分に頭に入れていたこともあったであろう。こういうところにも、豊田監督の言っていた質の高さが見られたといっていいだろう。
岩倉ベンチはここで2人を敬遠して満塁策を取って勝負を賭けた。5番の真崎君は、2ストライクからファウルで5球粘った挙句に、左犠飛を放った。まさに、執念の一打といってもいいものだったが、こうした粘りも国士舘の強さともいえるのだろう。
永田監督は、「見ての通り、打てないチームですから、3点取られたら負けだろうと思っていました。ですから、何とか、しっかりと守れることをまず第一としていました」と言うが、少ないチャンスを執念で生かしていくのもやはり、国士舘のスタイルといっていいであろう。創立100年を迎えるにあたって、国士舘としては来年の甲子園を目指していきたいところであり、それも目指しての永田監督の復帰ということである。
あと一つ競り負けた岩倉は、「1年生でいい投手を3人作っています。やはり、一冬越さないとなかなか一人前にはならないと思っていますが、楽しみではあります」と、豊田監督は来春へ向けては、この負けも一つの糧として前向きに向かっていく姿勢を示した。
(文・写真=手束 仁)
注目記事
・2016年秋季大会特設ページ