岩倉vs都立六郷工科
立ち上がりに大量点の岩倉、継投できっちり完封
先制打を放った岩倉・中村君
会場校の岩倉は1984(昭和59)年春の、第56回センバツ大会で優勝を果たしている。あのPL学園に㏍コンビが2年生として活躍していたチームを決勝で下しての快挙である。あれから、30年以上の歳月が流れた。その記憶も遠くなりつつあるが、岩倉は磯口洋成前監督が退任して、この春から、教え子でもある豊田浩之監督が就任した。
岩倉の甲子園出場は、春は優勝した年と夏は97年と一度ずつ経験しているが、その時代から、タテジマで筆記体の「Iwakura」のユニフォームの基本は変わっていない。
こうして、伝統を継承しながらの、新生岩倉である。グラウンドのバッターボックス後ろの芝生には、岩倉筆記体で校名が書かれている。これは、豊田監督が部長時代に自ら作って描いたものだという。
会場校としては、本大会進出はやはり、どうしても達成しなくてはいけないことだが、岩倉は序盤に大量点を奪って、コールドゲームで進出を決めた。
初回、岩倉は先頭の和田君が中前打で出ると、四球とバントで一死二三塁とする。ここで、4番中村君が右前打して2者を返して先制。さらに水野君が三遊間を破ってつなぐと、弓指君のスクイズで手堅く3点目。なおも、二死二三塁という場面で伊勢君が左中間二塁打して、さらに暴投もあってこの回5点。これで、岩倉が完全に主導権を奪う形になった。
2回にも岩倉は水野君のスクイズ(記録は野選)などで3点を追加した。豊田監督は意図的にバントを多用していったが、「打てるチームではリアませんし、バントだってそんなに上手なわけではないのです」という意識に基づいて、「トーナメントの場合は、やはり(点が取れるチャンスには)確実に取っていかなくてはいけません」という思いで、慎重に得点を重ねていった。
結果的にはこうした形でコールドゲームとすることが出来たのだが、5イニングで6犠打を決めて、きちんと得点機は取っていこうという岩倉としての姿勢を示した。
投手陣は、オーソドックスなタイプの右本格派の坂本君から木曽川君とつないだ。坂本君も、木曽川君もよく腕を振って投げ込んでいるという印象だった。二人で、5イニングを2安打完封した。岩倉には、さらには巽大介君という大型左腕がいるのだが、この日は投げないままだった。
六郷工科としては、初回に2番神谷君が二塁打し、4回にも代った木曽川君から3番益子君が内野安打したものの、そこまでで後続打はなく、三塁へ届くこともなかった。
(文・手束 仁)