秀岳館vs鎮西
フルスイング
‘09年の5月頃であっただろうか。
「福岡ウィングスから投げても打っても凄いのが鎮西に入学した」
事前にそんな情報を聞いていた筆者は、別の選手の取材で鎮西グラウンドを訪れた時のことだ。変則ダブルヘッダーの合間に時間をとっていただいた取材を終え、江上寛恭監督との談話の中で噂の1年生のことに触れるとこういった。
「柿原のことですか。よくご存知ですね。1年生とは思えない凄い打球を飛ばしますからね」(江上監督)
「そうなんですか。でもピッチャーもやるんですよね」(筆者)
「彼はピッチャーとしても凄い球を投げるんですが、野手としての能力もずば抜けていますから。この後の試合でも野手として出ますから見ていかれませんか」(江上監督)
しかし、筆者は外せない予定が入っており、柿原を見れないまま、鎮西グラウンドをあとにした。だが、なんかいい余韻が残っていた。それは柿原翔樹という逸材が、江上監督の目をさらに輝かせていたからかも知れない。
楽しみにしていてください-。そんな江上監督の言葉が脳裏に焼きついたまま。
そして’09年夏、初めてみた1年生の4番・柿原に衝撃を受けた。試合の3日前に風呂場で滑って18針を縫う大ケガをしたにも関わらず志願の出場。ヘルメットの下には保護のため、ガーゼの上に水泳キャップも被り、当然ヘルメットもなんだか盛り上がったままである。さぞかし痛かったことだろう。それでも「3年生のために」というど根性をみせ、その年の春の王者・ルーテル学院の酒井駿(現・国学院大)、井川裕貴(現・亜細亜大)という九州屈指の右腕を相手に持ち前の豪快なフルスイングでなんと3安打をたたき出したのだ。
それから本塁打を積み重ねること35本。逸材の宝庫といわれる九州の中でも、おそらくナンバーワンではないかと思われる数のアーチを豪快に放り込み続けてきた。
また、彼の人間性はというと、野球のように豪快なのかと思いきや、決してそうではない。グラウンドでみせる堂々たるプレーとは裏腹に、得意気もなく、いつ会っても屈託のない笑顔で謙虚な受け答え。グラウンドでどんなに離れたところにいようが見つければ、ペコっと挨拶をしてくれる。しかも、いつも楽しそうに野球をしているのだ。率直にいえば、純粋に心の底から野球が好きだという野球小僧である。
そんな柿原も気がつけば高校3年生。今年で最後の夏を迎えていた。
チーム事情もあり、6月のNHK旗大会からはエースも任されることになり、最後の夏は“エースで4番”として挑むこととなった。
そしてこの日の準々決勝だ。柿原の好投もあり、ノーシードで勝ち上がった鎮西は、第1シード・秀岳館に立ち向かったのである。
立ち上がりから、ちぎっては投げ、ちぎっては投げとひたすら捕手・小林辰徳のミット目掛けて投げ込んだ。もちろん、柿原らしく野球を楽しみながら。しかし、2回、4安打を打たれ3点を先制されると、3回には柿原が最もマークしていた2番・橋本勇哉にアーチを浴びた。それでも4回以降は、粘り強く投げ抜き、7回の1点のみにしのいだ。
そして9回を投げ終わった時点で、マウンドからベンチに戻ってきた柿原は泣いていた。
そんな柿原を引き締めるかのように江上監督はこういった。
「まだ試合は終わっていない。柿原、思い切っていけ」
最終回の先頭打者となる4番・柿原に“らしさを貫け”とでも言うような思いを込めたゲキである。
鎮西スタンドからも「柿原さんフルスイング!」という声が飛び交う。もちろん、男気のある柿原はフルスイングを貫いた。
ファール、ボール、ファール、ファール、ファール、ボール、ファール、ファール。
そして9球目、最後はスイングアウトの三振に倒れた。
変化球で崩されても喰らいつき、最後までフルスイングを貫いた。
チームのためになればとエースを引き受け、ひたむきに頑張った柿原について、江上監督は噛み締めるようにこういった。
「(将来的にも)本当はピッチャーではないんですが、チームのためによくやってくれました。あの子に最後の夏を打者として輝かせてあげることができなかった・・・」
柿原が、初めて人前でみせた涙。それも泣き崩れる姿にチームメイトやスタンドの観客も心打たれたものがあったことだろう。しかし、最後まで貫いた柿原のフルスイングは高校野球ファンの記憶に深く刻み込まれたに違いない。
スタイルにこだわり、個性ある選手が少なくなってきたといわれる昨今、柿原のように豪快さのある個性は、ある意味、野球界にとっても財産ではないか。
鎮西の怪物から本物の怪物へ。そんな期待を抱かせつつ、柿原翔樹は次なるステージに飛び込んでいく。
(文=編集部:アストロ)