寺岡 寛治投手(石川ミリオンスターズー楽天)5年の沈黙経て、再び動いた「投手」の時計【前編】
2015年夏、ある人の運命の言葉が高校時代から眠りにあった豪腕を再び目覚めさせ、2016年ドラフトでのある選手の指名が最後にルートインBCリーグへ進む決め手に。そして一年後、彼はついに夢への切符を勝ち取った……。東北楽天ゴールデンイーグルスから7位指名を受けた石川ミリオンスターズの最速155キロ右腕・寺岡 寛治・25歳。その壮大な野球ドラマの一端を、ぜひ聞いてほしい。
手が届くも、一度は諦めた「NPB」への道
寺岡 寛治投手(石川ミリオンスターズー楽天)
――今回25歳で東北楽天ゴールデンイーグルスから7位指名を受けた寺岡 寛治投手ですが、東海大五(現:東海大福岡)時代にはプロからも注目を集める右腕でした。
寺岡 寛治(以下、寺岡):入学当時の球速は140キロくらいだったんですが、特別なことはせず1年冬にトレーニングをしたら、球速が急激に上がったんです。2年夏は145キロになって、2年秋の九州大会では149キロを出しました。そこでスカウトさんからも注目して頂きました。
ただ、3年生になる前の2月になると右ひじに痛みが出てきたんです。何度か1~2週間投げずに休んでも痛みが出て、最後の福岡大会では投げることができませんでした。苦い思いをしました。
――ということは、九州共立大へは野手として進学したわけですね?
寺岡:当初はプロがだめなら社会人に投手として進もうと思っていたのですが、右ひじの状態では練習会にもいけなかったんです。野手として大学の練習会に参加して声をかけて頂きました。入学時には「投手には戻りたいけど」右ひじは結局、疲労骨折だったことが解って1年の時に手術。大学では最後まで野手でした。ただ、ここでの経験は「僕が野手ならどのようにして打つか」を考える上で、今の投球に活きていると思います。
――ちなみに大学の1学年上は広島東洋カープの大瀬良 大地投手でした。大瀬良投手から学んだことはありますか?
寺岡:一緒に練習をしていて、常に追い込んで練習している大瀬良さんの姿を見ていたら、1位指名されるのは当然だし、プロ野球で成績を残すのも当然だと思います。大瀬良さんからは「姿勢が悪いと力を出す量が半減する」ことと、走ることの大切さを教えてもらいました。
――外野手としては4年春に福岡六大学リーグベストナインを獲得。全日本大学野球選手権にも出場しました。この時期に次の進路も考えることになったと思いますが……。
寺岡:社会人野球を野手としてやっていきたいと思っていました。ただ、僕はけががあって下級生時代からの出場経験がなかったので、どこも採用枠がなくて。8月に九州三菱自動車に決まっていなかったら野球をあきらめていたと思います。運がよかったんです。
――ということは、当時は投手に戻ることは考えていなかったのですか?
寺岡:投手は頭になかったです。野手として生きていこうと思っていました。
最終学年で言えば、チームとしても個人としてもマシンと投手との違いを理解した上で、打撃練習にも取り組まないといけなかったですし、不完全燃焼でした。方法論を探しているうちに高校野球が終わってしまった感じです。
[page_break:元・南海ホークスエースの一言で投手復帰「二刀流」へ]元・南海ホークスエースの一言で投手復帰「二刀流」へ
寺岡 寛治投手(石川ミリオンスターズー楽天)
――かくして寺岡選手は2015年からは九州三菱自動車に進みます。
寺岡:午前中に野球をして、午後からは福重店で営業の仕事。有吉 (優樹・2016年千葉ロッテマリーンズ5位指名)さんとは同じ職場で働いていました。
――そんな寺岡選手が投手に戻ることになったのは、どんな経緯があったのですか?
寺岡:入社1年目の8月にこの年から投手コーチに就任されていた山内 孝徳さん(現:野球解説者)が外野手の練習を見ていた僕に言ったんです。「投手をやってみないか?」と。どうやら、山内さんは僕が東海大五高で投手をしていたことを知っていたみたいなんですが。
そこで5年ぶりにブルペンで投げてみたら思ったよりコントロールがよく、今度は「2週間後のオープン戦で投げてみよう」となって。リリーフで投げたら150キロ。自己最速更新です(笑)。
――山内 孝徳さんといえば、かついて南海ホークスのエースとして通算100勝を上げられた方。では、山内さんの言葉がなければ今の寺岡「投手」はなかったのですね?
寺岡:自分としても「投手をやりたい」気持ちも残っていたところに、声をかけてもらったことがすごく嬉しかったんです。加えて今考えると、九州共立大時代に野手として身体を大きくし、筋力を付けるトレーニングをしていたのと、外野手として遠投125メートルも出せていた中でも、自分の力を制御して返球していたことがよかったんだと思います。
――ただ、九州三菱自動車での2年間は実は「二刀流」だったとか。
寺岡:イニング間のキャッチボールで作って、外野手からマウンドに上がったこともあります。当時は問題なくできていました。さすがに2年目の2016年は投手中心のトレーニングになりましたが。
(文・寺下 友徳)
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