上林 誠知「神様に見えた瞬間がある」VOL.2
入団4年目の今季、福岡ソフトバンクホークスの熾烈な外野手争いを勝ち抜き、定位置をつかんだ上林 誠知。オールスターにはファン投票で選ばれ、規定打席にも到達。侍ジャパンの一員として、「ENEOS アジア プロ野球チャンピオンシップ」では全3試合に5番でスタメン出場した。宮城・仙台育英高時代から世代を代表する好打者として注目されながらも、苦労も多かった。その苦悩を間近で見てきた恩師・佐々木順一朗監督に上林について語っていただいた。
【VOL.1】では仙台育英入学当時を振り返っていただいたが、【VOL.2】では高校3年の夏を振り返っていただく。
■恩師が語るヒーローの高校時代 上林 誠知
【VOL.1】「上林には4番打者が一番合っていた」
実は1番上林を置く構想があった??
センバツを前に沖縄で合宿をした際、佐々木監督からアドバイスを受ける上林
佐々木監督は上林が高校3年の夏、甲子園で敗れた後、こんな話をしてくれたことがある。甲子園の決勝に進出していたら、上林を1番に置いたオーダーを組んだーー。それは本当に考えていたことなのだろうか。
「それは本当に考えていましたよ。打順は1番打つ選手から並べた方がいいと思っています。高校野球はトーナメントなので、一番、多く打席が回る打順でいいバッターだった方がいい。その昔は中濱(裕之、元近鉄など)が1番だし、志田(宗大、元ヤクルト)が1番だし、橋本が1番。1番打者がプロに行っています。でも、上林は4番」
今年は上林世代で1番を打った立教大・熊谷敬宥が阪神からドラフト3位で指名され、今年の仙台育英で1番を打った西巻賢二が楽天からドラフト6位指名された。上林世代で熊谷に1番を任せられるようになったことも上林を4番に置けた要因なのか。
「敬宥は8番からのデビューですからね。敬宥がもっと打てばなとは思ったけど。結構、買っていたのは、長谷川寛(早大)や小林遼(富士大)。上林は3番・長谷川、5番・小林に守られていたような気もしますね。それでいて、みんなより1つ上に抜けているところがあるというか」
あまり先頭に立つタイプではないものの、2年秋からはキャプテンも務めた。「自分からキャプテンになるタイプではなかったと思うんだけど、自分から立候補したのはあれだったんだよね」と佐々木監督は振り返る。
佐々木監督の言う「あれ」とは、2年夏の甲子園3回戦の栃木・作新学院戦でのあるプレーだ。2対2の同点で迎えた7回に1番・石井一成(日本ハム)が中前にはじき返した打球を、センターを守る上林が数メートル後ろにそらした。普通に捕球していれば単打で済んだが、捕球直前でバウンドが変わったのだ。石井は一塁を蹴って二塁へ。続く、鶴田剛也の右前適時打が決勝点になった。キャプテンになることを薄々は考えていたようだが、このプレーで「自分のせいで負けた」と責任を感じて決断した。
上林が神様に見えた
上林 誠知 (仙台育英)
上林がキャプテンとなった2年秋、仙台育英は6年ぶりに県大会で優勝(なお、秋季県大会はそこから6連覇中)。東北大会も同じく6年ぶりに制した。
「岐阜国体があったので、3年生にプラスしてエースの鈴木天斗(東北福祉大)と上林を連れて行きました。3年生には『秋の大会でこいつらが頑張らないと話にならない。みんなの力で2人の調子を戻せ』というようなことを言いました。最後までダメだったんだけど、最後の県岐阜商(岐阜)戦でトドメのホームランをライトに打って、天斗も抑えた。決勝は大阪桐蔭でしたが、雨で同時優勝。国体から戻ってきて、そのまま福島での東北大会でした」
初戦で一関一に9対0の8回コールド勝ちしたが、続く準々決勝の青森山田戦は苦しんだ。
「8回裏に2失点し、1対3とされて迎えた9回。ベンチの中は負けの雰囲気だったけど、『上林に回るから。大丈夫だから』と言って、代打、代打で奇跡的なつながりがあって、同点になって上林に回るんだよね。ほらね、という感じ」
ここで青森山田はライトの守備に就いていた先発・辻本那智(国学院大)を再び、マウンドに戻した。
「青森山田が左ピッチャーに交代して、その初球だったんじゃないかな。ライトにホームランを打って逆転(決勝2ラン)。あの時は神様みたいに見えましたね。打ったのは左ピッチャーの低めのボールですが、プロでも打っている。彼の真骨頂ですね。準決勝の酒田南戦もスタンドの上段で弾んで打球は場外へ。あの時は研ぎ澄まされた雰囲気が一層、強くなった感じがしましたね。上林が目立つようになればなるほど、その前後が活躍するようになっていった。刺激されたのもあるし、相手が上林を警戒し過ぎて、長谷川や小林、水間 俊樹(東北学院大)にやられた感じがありました」
明治神宮大会では、県岐阜商(東海・岐阜)、北照(北海道)、関西(中国・岡山)を撃破し、初優勝した。
「一気に上林らしさが出たのが2年秋だったかな。神宮もらしさ爆発でしたね。準決勝の北照戦は小林の3ランの後に満塁ホームラン。あの時、本当にいいんだなと思ったのは、インコースのボールを巻き込みながらライナー性の打球を打って切れなかった。そして、打ち込んだのはすごかったなと思います」
2年冬。グラウンドでは人工芝にする工事が行われており、練習は室内練習場での限られたものだった。そして、2月の週末は福島県いわき市で練習し、3月は沖縄と関西での練習試合で実戦感覚を戻し、センバツを迎えた。
[page_break:練習試合では本物と思わせる一打を見せるも怪我で不調に陥る]練習試合では本物と思わせる一打を見せるも怪我で不調に陥る
上林 誠知 (仙台育英)
「冬に食べて、食べて、いい感じで体ができて、春を迎えました。上林が一番、調子が良かったのは沖縄じゃないかな。伝説のホームランも出ました。糸満との練習試合でバックスクリーン越え。相手の上原忠監督(現沖縄水産)が立ち上がって拍手をし、相手選手もみんなも拍手をしたほど。関西入りしてからの智弁学園戦も鮮明です。果てしないホームランを打ったんですよ。でも、それがラストです。次の日からおかしくなりました。甲子園で勝負されたら3、4本はホームランを打つんじゃないかと思えるような雰囲気で、これはとんでもないことになるなと思ったのは、沖縄から智弁学園戦まで。それまでは完璧でしたが、そこからは違う人。悪球に手を出すようになりました」
センバツでは初戦の創成館(長崎)戦でワンバウンドのボールに手を出した。上林がイチローを好きだったこともあり、プラスに取り上げられた。本人も納得していないが、佐々木監督も「評判になったけど、本当に調子が悪いなと思った」という。ワンバウンドしたボールに反応したことはよくなかったが、それでも、打ち返した打球が緩かったため、中前にポトリと落ちるまでに一塁を蹴って二塁を陥れていた。そうした次の塁を狙う姿勢は好不調に関係なく、上林の持ち味ではあった。
センバツ後は怪我との戦いもあった。
「原因不明のかかとの痛みがありました。走り方が変だなと思ったら、痛いということで休む状態になった。エアロバイクとロープの上り下りで心肺機能などは落とさず、その間に食べて太り、夏前にちょっと良くなったら、練習試合では勝負されなくなりました。4打席あったら1打席くらいしか勝負されない。あとはインコース攻め。それでも、落ち着いてやっていました。打てるボールがあったら仕留めてホームランにしていた。また本物になったなと思った……のになぁ。夏の大会突入と同時におかしくなりましたね」
(取材・文=高橋 昌江)