「スポーツはだれの何のためのもの?それで本当に全員がOKだと思ってますか?」――教育者・工藤勇一さん【『新しい高校野球のかたち』を考えるvol.4】
工藤 勇一さん
学校教育において、子どもたちの民主主義を実践してきた工藤勇一さん。
麹町中学の校長時代、生徒たちが主体的に学校運営に関わり、生徒たち自ら学校改革を進めたことで注目を集めた。2024年3月までは、横浜創英中学・高校の学校長を務めた。
そんな工藤さんは、20代後半~30代までは、中学校の野球部監督として、野球の指導にあたってきた過去がある。
その後、野球との距離は遠のいたものの、昨今、新しい高校野球を目指す指導者が増える中で、教育界に一石を投じてきた工藤さんに、高校野球だけでなく、学校スポーツ界全体に対して思うことを率直に伺った。
「ぼくが、日本のスポーツ界について述べるのは、このタイミングなんだろうかという思いはありますが」と一言置いた上で、工藤さんの考えを語っていただいた。
<関連記事はこちら>
◆第1回:「慶應のやり方がいいとかじゃなく、野球界の今までの常識を疑ってかかってほしい」——元慶應高監督・上田誠さん
◆第2回:「『甲子園のためにすべて右ならえ』は世知辛い。野球を楽しむためのリーグがあっていい」——元慶應高監督・上田誠さん
◆第3回「その指導で、子どもは本当に野球を楽しむことができていますか?」――教育者・工藤勇一さん
スポーツの最上位の目標をどこに置くのか?全員OKの目標をみんなで合意している国
工藤さん:ヨーロッパの多くの国々では、スポーツは楽しむものという考え方が確立しているので、技術が優れた人と障害を持った人が一緒にプレーすることもごく普通のことだと聞きます。当然、技術差がありますから、ハンディキャップをつけて、ゲームの勝ち負けを楽しむんですね。スポーツというのは勝ち負けをつけると楽しいよねっていうところに原点があり、勝っても負けても楽しめる。スポーツは自分の人生を豊かにするものという考えですね。言い方を変えれば、生涯にわたる人生の友だちのようなものです。その原点をスポーツの最上位に置くかどうか、ヨーロッパの各国ではすでに合意ができています。
しかし、日本では傲慢な価値観の押し付けと、厳しい指導を受け続けた結果として、「もう二度と野球なんかやりたくない」「もう二度とサッカーなんかやるもんか」などとスポーツそのものを辞めてしまう子どもたちも少なくありません。そんな子どもたちも、大人になってから、再び草野球を始めたり、草サッカーを始めて、その楽しさを思い出す人もたくさんいるんですよね。
つまり、スポーツは教育だなんて価値観を押し付けちゃいけません。そもそも人の心は自由です。他人にとやかく言われたくないものです。
こんなこと言うとそれを反論する人がいます。いや、それを押し付ける考え方も自由でしょっていう人がいます。スポーツは、教育として意義があるっていう考えがあっても自由じゃないの?と。でも、それは、民主主義ではないんです。
「子どもたちに民主主義を教えよう」(あさま出版)でも書きましたけど、人それぞれが心の中で考えることは自由です。ですから、「自分の価値観をみんなに押し付けたい」ってことですら、心の中で考えるうちは構わないわけです。ただ、それを行動として押し付けるってことはいけません。なぜなら、他人の自由を奪ってしまうからです。民主主義とは、他人の自由を侵害しない範囲で自分の自由が尊重されるという考え方です。
これは、本の中で対談させていただいた苫野一徳さん(教育学者)の言葉をかりれば、『自由と自由の相互承認』という言葉になるんですけど、このことが分からないから、平気で自分の価値観を押し付けてしまうことになるわけです。
一億総動員ではないけど、みんなが心を一つにしよう。気持ちを一つにしようっていう言葉とともに、戦争によって強化された全体主義的な価値観が、戦争が終わって75年を過ぎた今も引きづっているんです。
次のページ:「価値を後付けする」日本の学校スポーツ