修徳vs二松学舎大附
お互いの思いと因縁を背負っての決勝対決、修徳が9年ぶりに夏を制す
10度目の東東京大会の決勝進出となった二松学舎、過去9度はいずれも涙をのんできて、まだ夏の甲子園には届いていない。
9年前の決勝進出時は、相手も同じ修徳に破れている。二松学舎グラウンドの監督室には、準優勝のペナントがいくつも掲げられている。
96年に就任した市原勝人監督は、98年夏以来4度決勝敗退の苦汁を舐めている。監督室のペナントを見ながら、
「あの時は、もう何年かすれば(甲子園に)届くと思っていたんですけれども、そこから思った以上に苦しまされました」と語ってくれたこともあった。とは言うものの、市原監督としては02年春、04年春は甲子園出場を果たしている。
一方、修徳はその9年前以降、夏の甲子園からは遠ざかっている。3年前の10年には決勝で、あと一歩まで迫りながらも涙を呑んでいる。阿保暢彦監督はその夏以降に就任して、これまでベスト8が一つの壁になっていたのだが、この夏は一気にその壁を破ってここまで来た。
そうした、それぞれの因縁と思いを背負っての両校の対決となった。
試合は最初から激しく動いた。初回の二松学舎は先頭の上田君が安打で出ると、バントで進め、竹原君も右前打でつなぎ一、三塁。4番行方君四球で一死満塁。
ここで、小峯君はいい当たりだったが、遊撃手小澤君の好守もあって併殺で修徳がピンチを切り抜ける。そしてその裏、修徳は二死三塁から4番山下君が左中間二塁打して先制すると、小林君も左越二塁打。さらに、根本君、保科君と続いてこの回4連打で3点。
2回の攻防も激しく、二松学舎は四死球などで満塁とするが、結局押し出しの1点を返すのみに留まると、その裏の修徳は山下君の中越三塁打など4長打でさらに3点。そして、3回からは監督は思い切って、先発西林君を下げて、この大会ではリリーフとして帝京戦でも活躍した遊佐君を投入。
「場面を見て、早い段階でも遊佐しかないというつもりでした」と言うように、迷いのない起用だった。
二松学舎はその遊佐君に対しても、行方君と小峯君の連打に失策も絡み、ここで押し出しがあり追加したが、なおも満塁。しかし、ここで代打関君の一打が一塁ライナーで併殺となった。ここが抜けていたら試合展開としてはまったく別のものになっていただろうが、これで二松学舎の流れが止まってしまった。
逆に修徳は、4回にも下位打線の3連打などで2点を追加した。こうして、激しい点の取り合いで進んでいった試合は、4回を終わってスコアボードに入った「0」は、1回表のみということになってしまった。ある程度の点の取り合いは予想はされていたのであろうが、二松学舎としては頼りの先発左腕大貫君が修徳打線に掴まってしまい、長打攻勢を浴びて2回途中までしか持たなかったことが、市原監督としても誤算だった。
それでも、二松学舎は6回に、大木君、竹原君、行方君と三連打し、さらに小峯君も右線へ二塁打してこの回3点で3点差とした。
これで、試合そのものも分からなくなってきた。3回途中に一塁からリリーフした行方君だったが、ここまでの乱戦の流れながら、5回から7回までを無安打に抑えていたのは立派だった。
次の動きがどうなるかということが注目されたが、8回ついに力尽きるように2四球と失策絡みで、4点が入った。これで、さすがに二松学舎も及ばなかった。
9年ぶり5回目の甲子園出場を決めた修徳。阿保監督は試合後、
「選手が1試合、1試合成長していってくれて、感謝しています。相手がかなり打つチームなので、何点取っていても安心できませんでした」と、試合を振り返りつつ、選手たちを称えていた。
主将の飯野君は、
「自分たちはノーシードだったですけれど1戦1戦、戦いながら強くなっていかれたと思います。スーパースターはいませんけれど、甲子園でも自分たちの野球をしていきたいと思います」と、甲子園へ向けての思いも語っていた。
(文:手束仁)