二松学舎大附vs都立城東
さまざまな因縁を乗り越えて、二松学舎好調にベスト4進出
思い起こせば12年前、場所も同じこの[stadium]神宮球場[/stadium]での3回戦だった。その年は優勝候補の一角に挙げられていた二松学舎大附は、シード校として都立城東を待ち受けていた。その試合では、幻の本塁打という微妙な判定などもあって、都立城東が制すこととなった。そして、都立城東は、その勢いでそのまま勝ち上がり続けて2年ぶり2度目の甲子園出場を果たしている。
一方、二松学舎大附は翌年から3年連続で東東京大会決勝で敗退するなど、悲運に泣いてきた。
それから幾星霜。当時のエピソードを知る人もスタンドに詰め掛けていたが選手たちはもちろんそんなことは知らないし、あまり意識にもないようだ。それに、都立城東もあれから、当時の梨本浩司監督(現都立広尾)の移動などで、指揮官が2度変更しており、今の桜井俊之監督は、「私の中では、それは別の話で意識にはないですね」という認識であるという。
ただ、二松学舎大附の市原勝人監督は当時から指揮を執っており、今大会では、絶対に甲子園に行けると言われた03年夏の決勝を延長の末に逃した相手だった都立雪谷と先の5回戦で当たり、9回土壇場で追いつかれながら、その裏に突き放すサヨナラ勝ちで一つ因縁をクリア。そして、この都立城東戦でも決して楽な試合展開ではなかったが、先制、中押し、ダメ押しと1点ずつを重ねてクリアしていった。
そういう意味では、市原監督にとっては大きな意味のあるベスト4進出となったのではないだろうか。だから、「ここまで来たら悔いのないようにとか、そういうことではなく、勝ちを意識して少しわがままになってもいいから、そんな気持ちで行きたいですね」と、これまでの市原監督とは少し違った発言もしていた。自身としても6度の決勝での壁、そして学校としても9度の決勝での壁の突破へ向けて、意識を上げていく姿勢であるということなのだろうか。
二松学舎大附は初回に、上田君がいきなりの死球で出塁すると、バントで進めて竹原君の中前打でつないで一三塁。ここで、行方(なめかた)君も中前へはじき返して先制点を挙げた。さらに、3回にも、1死後小峯君と秦君の連打で一二塁として2死から8番大貫君が一二塁間を破って2点目を挙げた。
自身のタイムリーということもあって、気をよくした大貫君は自分のリズムでテンポよく投げて行き、3~6回までは3人ずつで処理していった。守りも、いい動きで好守を披露していた。そして、二松学舎大附は7回にも1死から左中間二塁打した秦君を7番石黒君が帰してダメ押しともいえる3点目を加えた。
結局、大貫君は終始自分の投球で、「この大会に入って一番いい内容の投球だった」(市原監督)という5安打に抑える好投だった。三塁へ進めたのも2回の一度だけだった。9回こそ2死から4番大久保君と5番大倉君に連打されたものの、それ以外は散発で、危なげがなかった。
決して威圧感があるという感じでもなければ、もっとチーム力のある時も何度もあったであろう二松学舎大附だが、こうして因縁のある相手を次々とクリアしていっている流れの中で、もっとも大きくて厚い壁も、ヒョイと越えられてしまうのではないか、そんな予感もさせるチームの雰囲気である。
99年と01年の2度甲子園出場を果たし、“都立の星”としては、その先頭を切っている存在のはずの都立城東である。ただ、ここ数年は比較的早い段階で負けることも多くなっていたが、久しぶりのベスト8進出で、この日は99年や01年の父母会のメンバーなど、「強い城東」を知る人たちも多くスタンドに詰め掛けていた。間違いなく、東京都の高校野球の戦力構図を変え、選手はもちろん指導者たちの意識変革にも貢献した都立城東の快挙だった。その都立城東を見ようと、スタンドは熱く盛り上がっていた。
結果的には、二松学舎大附に完敗という形になってしまったが、小柄なエース山口君は、小気味のいい投球で好感が持てた。「競っている試合が多くて、結局、この大会では山口を代えられませんでした。それに、自分で勝ちパターンの投球を組み立てられますから」と、桜井監督も絶対の信頼を置いていたエースである。
ただ、この日は立ち上がりの初球の死球、それがすべてだったかもしれない。それで本来のリズムを少し崩した。
都立城東としては、結果は及ばなかったものの、それでも下町に12年前の夢の感触を蘇らせるに十分の今大会の活躍だった。
(文:手束仁)