春日部共栄・本多利治監督が今年度で退任、「明るく楽しく元気よく」埼玉の勢力地図を塗り替えた名将
本多監督(春日部共栄)
春日部共栄を長年率いた本多利治監督が、今年度限りで監督を退任する意向だという。
1980年の開校とともに野球部の監督に就任、44年にわたり指導し春3度、夏5度の甲子園出場を果たす強豪に育て上げた名将である。
公立校が優勢だった埼玉県の高校野球界にあって、1991年のセンバツで甲子園初出場を果たした。埼玉東部の高校としては初めての快挙である。この初出場を足掛かりに、本多監督は浦和学院とともにその勢力図を塗り替えていくことになる。
本多監督に初めて会ったのは、初めてのセンバツ出場を決めた1991年の1月、選考会を直前に控えた時期だった。前年秋の関東大会に埼玉1位で出場しセンバツ当確をかけた準々決勝で桐生第一に4対5と惜敗。桐生第一も準決勝で敗退し、出場は難しいと思われる状況だったが、年を越えてメディア間のやり取りで、「関東5校目に春日部共栄が入るのかもしれない」という憶測が出てきた。
春日部共栄のグラウンドを訪れると、ブルペンは野球部員の自転車が占領していた。チームとしてセンバツ出場は念頭になく、春のシード権獲得、夏の予選を目指しているということである。「ウチは甲子園に出られるのですか」と、笑顔の中にもすがるような眼で問いかけられた。取材側としては、答えようがない。本多監督の高校時代の実績は栄光に包まれている。高知高の3年には主将としてセンバツに出場し、優勝を果たした。決勝の相手はあの原辰徳が4番を務める東海大相模だった。甲子園を熟知する監督は、選手にぬか喜びをさせたくないという思いがあったのだろう。
「うちの高校は文武両道なので、野球部は特別ではないので難しいです」。選手時代に輝かしい経歴を持つ本多監督は、もどかしさを口にしながら、選手一人ひとりの撮影にも丁寧に対応してくれた。はたして、センバツ選考会で春日部共栄は関東5校目として選出された。センバツ出場が決まって春日部共栄を分析すると、当時では大型のチームで選ばれてもいいチームだと感じた。センバツでは1回戦の尽誠学園に10対3で勝利、2回戦では優勝する広陵に善戦し2対4で敗れた。堂々たる初陣である。
2度目の取材は、1993年の夏の甲子園だった。埼玉大会の決勝で浦和学院を5対2で破った春日部共栄は、近江兄弟社との甲子園での初戦を迎えた。試合前の控え場所で、本多監督に会った。センバツ出場前の取材以来である。本多監督の前に立つと、挨拶をする間もなく笑顔で取材に応じてくれた。覚えていてくれたことが嬉しかった。
「実は春の大会後はチームが分裂していたんです。3年生が不甲斐ないから、この夏は2年生で行くぞって言ったら、3年生が大反発して大変でしたよ」と、こちらが戸惑うような舞台裏も明かす。
初戦の近江兄弟社に12対0で勝利。試合後のテレビ取材終わった主将は、完封勝ちに興奮しながら、「監督とけんかしていました」と笑顔を交えて語った。
「監督を嫌い」と言い切る主将は「右翼・八番」である。2年生の左腕エース・土肥 義弘(プリンスホテル-西武)も、「移動のバスでは、プロレスのテーマソングを聞いています」とノリがいい。『明るく、楽しく、元気よく』という本多監督のモットーが、選手にも浸透していたのだろう。本多監督と主将への取材は、勝ち上がるとともに信頼関係の上にあるのだと理解できた。春日部共栄はダークホースにも挙げられなかったにもかかわらず、快進撃を続け決勝に進出した。決勝は育英に2対3で敗れたが、日替わりヒーローが生まれる異色のチームだった。
本多監督が育てた主な選手に、WBCで日本代表のコーチも務めた城石憲之(日本ハム、ヤクルト)、橿淵 聡(ヤクルト)、土肥義弘(西武、横浜など)、中里篤史(中日、巨人)、中村 勝(日本ハム、オリックス)らがいる。
文・合馬龍一郎
加藤敦子☆☆
2024-04-19 at 10:16 PM
埼玉県の高校野球はおもしろいね😊
49校中、一番甲子園に出る学校の数が今まで多かったのでは?
東西南北、出場してる学校があるからね
しかも、浦和市立に川口工業、上尾は南部
熊谷に熊谷商、確か深谷商も
北部が
東部は鷲宮(95年選抜、長谷川主将選手宣誓)、越谷西
西部は所沢商
公立はね
秩父地区はないけど、北部の新人戦で小鹿野が優勝したことあったから。
いやあ埼玉県は大学野球もなかなか、中でも東京新大学野球連盟1部、共栄に東京国際、駿河台、球場も岩槻に大宮、北本でも最近は。
立教は新座にグラウンド、東洋は川越に。
埼玉にいて高校野球が好きでないのは損するように思えます!