中学野球、高校野球に打ち込む選手たちも、いずれは社会に出る日が来るだろう。今回は、将来の進路に迷う選手たちのため、柔道整復師として球児のサポートを行っている一人の社会人のキャリアを紹介していきたい。

 千葉司さんは、独立リーグまでプレーした元プロ野球選手で、現在は柔道整復師として健康に思い悩む人々アスリートのサポートを行い、その傍ら野球レッスンも行っている。千葉さんのこれまで歩みは、進路に迷う選手たち、そして柔道整復師の仕事に興味のある選手にとっても、大いに参考になるはずだ。

千葉司さん
合同会社komichi代表。柔道整復師、こころとからだのコーディネーター、元プロ野球独立リーグ選手。東京と福井で投げ銭制の接骨院を運営し、のべ10万人近くの心と体に向き合ってきた。野球経験とコーチングの経験を活かし都内で“野球を教えない野球レッスン”を運営。レッスン卒業生がU12侍ジャパンの代表に選出された。現在、心理学を学ぶため、アラフォーで大学在学中。

24歳の時にNPB入りの夢が絶たれる



千葉司さん

--野球をされていたと伺いましたが、まずこれまでのご経歴を伺ってよろしいでしょうか?

千葉司さん(以下、千葉) 都立武蔵野北高校で野球をしていました。卒業後は学生野球の登竜門であるセレクションを受けられるという話があり、そのつもりでいたので3年生の10月まで練習をしていました。ところが条件が厳しくて受けることができませんでした。

 そこから勉強をして、法政大学の夜間部に合格。そして野球部に入りました。国分寺から法政大学野球部のグラウンドがある武蔵小杉、学校がある市ヶ谷の3地点をまわる学生生活でしたが、大学は3年生で辞めました。野球で挫折したんです。
 自分ではプロに行くものだと思っていたんですけれど、法政大学って甲子園あがりの人がゴロゴロいるじゃないですか。先輩には今プロ野球選手になっているような人が沢山いて。そんな中で、部員数は120人くらいいるし、「あーもうだめなんだ」と。先輩後輩の上下関係も厳しかったし、野球もだんだん面白くなくなっていってしまいました。

--独立リーグでもプレーされたと伺いましたが、そこから独立リーグに至ったのでしょうか?

千葉 いやいや全然!そんなすんなりじゃなくて、この頃の話は時間が足りないくらい色々あるのですが(笑)。

 挫折して21歳くらいで大学を辞めて、何をしていいかわからない。高校野球って「野球しかしないとプロになれない」みたいな思想があるじゃないですか。今はだいぶ薄れてきましたけれど、僕はまさしくそれだったんですよ。 で、野球がなくなった瞬間に何をしていいかわからなくなって、遊びに走ったんです。本当に何をしていいかわからなくて…。気が付いたら多額の借金を抱えていました。

 でもその時に、こんなボロボロの状態で何をしていたかと言うとテレビでは野球を見ていましたし、読む漫画は野球漫画。結局野球が好きなんだなと思い、もう1回死ぬ気で野球をやろう!燃え尽きるまでやってみよう!と思い、そこからまた野球を始めました。

 2~3年くらいバットとボールを握っていませんでしたが、まず体重増やすために1日7食食べて、トレーニングをして。この頃は本当に毎日野球と借金返済のことばかりでした(笑)

 24歳の時、人生で一番のピークの状態でプロテストを受けることができ、最終まで残りましたが2004年のストライキの影響を受け、最終的にはテスト生枠が消滅した形でNPBの夢が絶たれたました。

--そこから独立リーグでプレーするまでにどんな経緯があったのでしょうか?

千葉 もちろん僕の力不足でもあるんですけれど、そこまで行くと心残りというか、どこかでぬぐいきれない部分もしょうがないかと思い、先輩が勤めていた会社に入社しました。すると、その会社がたまたまBCリーグのスポンサーだったんです。
 新潟アルビレックスというチームにたまたま大学時代の先輩がいたこともあり、そこで初めて独立リーグという存在を知りました。

 「じゃ、来年受けます!」と25歳の時サラリーマンを辞めて再び野球の道へ。ドラフトで新規チームから選ばれていく1巡目で、福井ミラクルエレファンツ(現:ワイルドラプターズ)に選ばれてそこで1年間だけプレーをしました。それが28歳の年で、他のチームからのオファーもあったのですが、先々のことを考えて引退を決意しました。

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