「伝統校」の誇りと歴史を胸に戦う──100年以上の歴史を築きあげている高校野球。その中には幾度も甲子園の土を踏んだが、ここ数年は遠ざかり”古豪”と呼ばれる学校も多く存在する。
昨年から導入された低反発バットや夏の甲子園二部制など、高校野球にも変革の時期が訪れようとしている。時代の変遷とともに変わりゆく中で、かつて聖地を沸かせた強豪校はどんな道を歩んでいるのか。『高校野球ドットコム』では名門復活を期す学校を取材し、チームの取り組みや夏に向けた意気込みに迫った。
「あと一つ」で涙を飲んだ21年
全国でも名の知れた強豪があまた存在する千葉県の高校野球。毎年のように甲子園出場校が入れ替わることから、名付けられたのは「戦国千葉」。今年も熱い戦いが予想され、163校147チームが頂点を目指してしのぎを削る。
今夏も春の関東大会で横浜の連勝記録を止めた専大松戸をはじめ優勝候補が乱立する中、その一角を担っているのが拓大紅陵だ。昨夏の千葉大会では市船橋に敗れベスト8に終わったが、昨秋は準優勝で関東地区大会にも出場し、この春もベスト4と安定した成績を残している。県内では常にベスト8以上に入る活躍しているが、最後に聖地を踏んだのは2004年春のセンバツ大会。じつに21年も甲子園出場から遠ざかっているのだ。
最後の出場から21年、同校は幾度も「あと一つ」の所で涙を飲んできた。05年、06年の夏は決勝まで進むも銚子商、千葉経大付の前に屈して聖地には届かず。07年には高校1年時から4番を張り、スーパー1年生と騒がれた大前 勇人を擁したが4回戦で散った。当時コーチを務めていた坂巻 展行監督が「打てば右に左に飛ばしていましたし、投げれば140キロ。膝に爆弾を抱えていたこともあり、順風満帆ではなかったかもしれないですけど、大前は凄い選手でしたね」と話す逸材も、甲子園でプレーすることはなかった。
09年にも後にプロ入りを果たす大木 貴将(元千葉ロッテ)や、2年生ながら主戦で投げていた加藤 貴之投手(日本ハム)らがメンバーに名を連ねたが、夏の決勝で八千代東に敗戦。春のセンバツ大会出場に繋がる秋季大会でも17年に優勝、19年、21年、24年に準優勝で関東地区大会出場に出場したが、いずれも初戦で敗れている。今年の投手陣の中心を担う堀込 龍投手(3年)は昨秋の敗北について、「劣勢の時にチームの空気が沈んでしまった。全員で戦っている感じがしなくて、そこから崩れていってしまいました」と話す。夏、秋と上位進出を果たすものの「あと一つ」で甲子園を逃し続けているのである。
名将の教えを引き継ぐ指揮官
甲子園出場9回の名門を率いる坂巻監督は、同校の主将として84年に春夏連続で聖地を経験している。現役を退いてからは、拓大紅陵で30年以上指揮を執り、U-18日本代表でも監督を務めた小枝 守さんの下で指導者としての根幹を学んだ。
亡き恩師の教えで印象に残ることは何か。問いかけるとしばらくグラウンドを見つめた。時間にして約20秒。沈黙からようやく口を開くと「やっぱり感性が大事かな。我々大人もそうだし、選手もそうです」とこぼした。
現役当時、小枝さんには「(甲子園に出るのは)太平洋を泳いで渡るようなもんだ」と冗談を飛ばされたこともあった。それだけ大変な道のりにあって、結果を出すまでの過程も大事にしているという。
その一つとしてあるのが環境整備。坂巻監督が就任した23年秋からは、「環境が人を育てる」と今まで以上に念入りに行っている。レギュラーの選手も含め、練習を始める前の短い時間で草むしりに励み、寮の掃除も徹底されている。また遠征に出る際には出発時刻の5分前、早ければ10分前には出発できるよう準備しているそうだ。こうした指導に主将の加藤 玄竜捕手(3年)は「施設の整った環境でプレーできている事に感謝しています。私生活では、マイナスの評価はされないようにしないといけない」と話す。指揮官も「野球以外の面は、私も小枝監督から厳しく言われていました。こうした部分を整えていくことで成長が見えてくると思います。今の選手たちを褒めたいです」と語っていた。
野球の面で坂巻監督が求めるのは「根拠」を持ったプレー。チャレンジすることはいとわず、選手の挑戦をむしろ歓迎しながら選手の成長を促している。
「私は選手が失敗してもそんなに責めないです。誰だって勝とうと思ってやっている中で、うまくいかないこともあります。小枝監督には現役時代からプレーで怒られることは少なかったですが、自分がプレーしていて怒られながら野球をすることは好きではありませんでした。時には奮い立たせる意味で叱咤激励することもありますが、選手が根拠を持ってトライしてうまくいかなければ、切り替えていくことも大事です」
立ちはだかるベスト16の壁
この記事へのコメント
読込中…
読込中…
まだメッセージがありません。
>> 続きを表示