負けん気の強いアンダースローの中川颯(桐光学園ー立教大)の投手人生の始まり vol.1
1998年世代は投手大豊作の1年。プロでは山本 由伸(都城出身)、大学では早大の早川 隆久(木更津総合出身)と実に多い。その中で異色の存在といえるのが立教大の中川 颯(桐光学園出身)だ。高校時代から有名なアンダースローとして、二度の関東大会出場、最後の夏はベスト4。
立教大進学後は1年春に大学選手権優勝を経験。61試合に登板し、10勝8敗、通算141奪三振と好成績を残し、今年のドラフトでは4位指名を受け、プロ野球選手になる夢を叶え現在、プロ野球界でアンダースローで実績を挙げたのはこの3人。
高橋 礼投手(福岡ソフトバンク)専大松戸出身
與座 海人(埼玉西武)沖縄尚学出身
牧田 和久(東北楽天)静清工出身
中川はアンダースローで勝負出来る投手として評価され、夢を叶えることができた。では中川はいかにしてこの位置にたどり着いたのか。そのサクセスストーリーを振り返っていきたい。
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県内屈指のアンダースローのきっかけとなった帝京戦 中川颯(桐光学園ー立教大) vol.2
苦しみ抜いた中川颯(桐光学園ー立教大)が生み出したアンダースロー論 vol.3
渡辺俊介に憧れてアンダースロー人生がスタート

中川颯
中川が野球を始めたのは小学校1年生から。父親とキャッチボールをしているうちに自分に向いている投法がサイドスローだということに気づく。
「もともと昔から平日に父親と投げ込みをしていて、投げている時に、リリースポイントが下がっていました。
自然と、スリークォーター気味になっていて、小学5年生のときにプレーしていた少年野球のチームの投手がすごい良くて、彼もサイドスローでしたので、興味本位で真似したのがきっかけです。自分には結構合っていて、投げやすくて球威もコントロールも安定した覚えがあります」
そして中学校では、横浜泉シニアでプレー。入学する前にアンダースローになる最大のきっかけを見つける。
「日本シリーズで、千葉ロッテが日本一した時、渡辺 俊介さんが活躍されていて、それを見ていて、いざ中学にはいる時だと、身体も小さかったので、アンダースローにして、少しでも上で通用する可能性があるものを身に着けないと自覚があって、アンダースローにしました」
中学生当初は150センチほど。渡辺が著した本も購入し、アンダースローの勉強を行い、投球フォーム、ストレートの投げ方などを学んだ。
中学生になると成長期に入り、メキメキと身長が伸び、中学3年になる頃には180センチと高身長に。チームでは5番を打つようになり、チーム内では中心選手へ成長した。
180センチと長身ならば、角度を生かしてオーバースローにする考えもある。しかし中川はアンダースローにこだわった。
桐光学園入学後は挫折を痛感

桐光学園時代の中川颯
「変えたくなかったというか、プライドじゃないですけど、根っからのアンダースローと自負していたので、他のアンダースローの投手には負けたくない気持ちが強いですね」
そして卒業後は桐光学園進学を決断する。
「横浜泉シニアの先輩が桐光学園に進んでいて、桐光学園の良さを見聞きしていました。まず進学校で大学の進路も良い。自分自身、大学進学することは当時から考えていたので、そこは良いと思いました。
一番の理由は、自主性を特化した練習環境です。僕自身、練習は自らとことんしますが、強制的で、いわゆる縛られた練習が嫌いでしたので、そういうのがない桐光学園の環境は一番合っていたかなと思いました」
こうして桐光学園へ入学した中川だったが、入学する前年は松井 裕樹(東北楽天)がエースとして全国的な注目を浴びていた名門校。最初はレベルの高さに圧倒されたという。
「中学も5番を打っていましたけど、力量からといえば、他の選手のほうがすごくて、自分はそれほど実力がない選手でしたので、やはり桐光学園に進んだらどの選手もレベルが高くて圧倒されましたね。入学したときは全然通用しないで終わるじゃないかと思いました」
補欠のまま終わるかもしれない。
いわゆるスーパー中学生の立場ではなかった中川がいかにして1年夏のベンチ入りを勝ち取ったのか。
それはある練習試合の奇跡的な活躍だった。
vol.1はここまで。次回のvol.2は16日、最終回となるvol.3は17日掲載予定。vol.2では中川投手の高校時代の活躍を振り返っていきます。次回もお楽しみに!
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苦しみ抜いた中川颯(桐光学園ー立教大)が生み出したアンダースロー論 vol.3
(記事=河嶋 宗一)