韓国高校野球最盛期は1960年代から1970年代 満員の観客、日韓親善試合など士気を上げる材料が揃っていた【韓国高校野球事情②】
鶴岡泰監督と金永徳監督(写真提供:大島裕史)
1960年代から1970年代の日本の高校野球は作新学院(栃木)が1962年に春夏連覇、そして1973年には剛腕投手の江川卓投手(元巨人)の登場、1972年の津久見(大分)から1975年の習志野(千葉)の公立校が優勝したりと地元のスター選手が地元の高校に進んで夏の甲子園を一段と盛り上げていた。韓国も1960年代〜1970年代に最盛期を迎え、1982年に韓国プロ野球(KBO)が誕生するまでの中心は高校野球だった。
全国大会1回戦から満員の観客で埋まることも!
張本勲も参加したことがある在日僑胞学生野球団の母国訪問試合も一つのきっかけになって韓国の高校野球人気は盛り上がり、1960年代、70年代は全盛期を迎える。ソウルの中心部近くにあった約3万人収容のソウル球場(後の東大門〈トンデムン〉球場→2007年に撤去)は、全国大会の1回戦から満員の観客で埋まるようになった。韓国の高校野球の全国大会は、日本の植民地支配から解放された1945年の翌年から始まった朝鮮(チョソン)日報主催の青龍旗大会、その翌年から始まった東亜(トンア)日報主催の黄金獅子旗大会に加え、67年からは中央(チュンアン)日報が主催する大統領杯大会、71年からは韓国(ハングッ)日報が主催する鳳凰大旗大会といったように、全国紙が主催する大会がある。加えて、釜山(プサン)、光州(クァンジュ)など地方紙主催の大会もかつてはあり、乱立傾向にあった。
実業団野球もそこそこ人気があったが、82年にプロ野球が誕生するまでは、韓国の野球の中心は高校野球であった。そのことが韓国野球発展の礎になったことは確かだが、プロなき時代の隆盛は、高校野球自体がプロ野球のような存在になり、高校野球らしさを失わせることになった。
在日僑胞学生野球団の母国訪問試合を主催していた韓国日報が71年に鳳凰大旗大会を始めたことにより、在日チームも在日同胞としてこの大会に参加することになった。この大会は、韓国の全ての高校野球チーム(当時で約50校)が、予選なしで一堂に会する大会だ。ちょうど夏の甲子園大会と同じ時期に開催される韓国版の夏の大会だ。
この大会で在日チームは、優勝はないが74年、82年、84年の3回準優勝している。74年のチームのエースは、中京(現中京大中京)の金本誠吉(韓国名・金誠吉〈キム・ソンギル〉)だ。横手投げ投手の金本は、1年生の夏に中京のエースとして、甲子園大会の準々決勝に進出した実績がある。後に阪急(現オリックス)に入団し、サムスン、サンバンウルといった韓国のプロ球団でも活躍した。
82年のチームは、その年のセンバツで準々決勝に進出した和歌山の箕島の選手が、チームの中心になっていた。
84年のチームの4番で捕手は、京都・花園の中村武志(韓国名・姜武志〈カン・ムジ〉)だった。中村はその年のドラフトで中日に1位指名された。中日、横浜、楽天で活躍し、引退後は韓国プロ野球のKIAでバッテリーコーチを務めたこともある。
在日チームは、決勝戦はソウル高校に3-12と大敗したが、ソウルの捕手の金東洙(キム・ドンス)は、後にLGなどで活躍し、韓国ナンバー1捕手の評価を得ていた。この大会は金東洙がMVPを、中村が敢闘賞を受賞している。金東洙は中村のことを、「肩はうらやましいくらいに強かった」と語っている。
94年のチームは準々決勝に進出したが、このチームの投打の柱は、近大附の金城龍彦だった。横浜時代に首位打者にもなる金城だが、高校時代は150キロの速球を投げる投手でもあった。在日チームの出場は97年まで続くが、元阪神の桧山進次郎なども参加している。