前橋商業(群馬)vs宇和島東(愛媛)
愛媛県代表復権案
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(宇和島東)
「振り切れなかった」牛鬼打線
「遅い球に対してのバッティングは、フォローのところで引き込んで待ってから鋭く叩くことが大事です。逆にスイングまで遅くしてしまうと詰まってしまうんですよ。そう考えて見ると今日の宇和島東はほとんどの打者のスイングが遅いのが気になりますね」。
前橋商戦前日の割り当て練習。相手の軟投型左腕エース、野口亮太(3年)対策としてマシンでは120キロ、左投手には変化球を投げさせてフリーバッティングをしていた「牛鬼打線」を見てこう指摘したのは、愛媛県ローカルTV局による「ふるさと実況」の解説として甲子園を訪れていた岡部利一さん。
平成2年(1990年)の第62回選抜高校野球大会で準優勝した「ミラクル新田」のキャプテンと言えば、ご存知の方も多いだろう。
確かに岡部さんの指摘を受けてもう一度彼らのフリーバッティングを見てみると、遅いカーブにバットは泳がされ、弱々しい内野ゴロや外野フライが飛んでいくばかり。岡部さんが「狙って強い打球が打てている」と褒めた4番の竹本光毅(3年)他数名以外は、翌日の本番に心配を残す直前練習となってしまった。
そして前橋商戦の結果は野口の前に5回まで無安打に封じられ、6回以降も竹本が外角低めの直球を確実に叩いてセンター前に運んだ1安打を含む散発3安打のみの完封負け。試合後、自身も3打数無安打2三振に終わった宇和島東の主将・中村優太は「野口くんはコントロールがよく、ウチもテンポよく投げさせてしまった」とチームバッティングができなかったことを悔やんだが、その前兆は既に試合が始まる前から生じていたのである。
「愛媛県代表」への総力サポート態勢を
かくして「1回は自信のあるカットボールやスライダーを打たれたが、2回以降は自分の持ち味を出せた」という山本喬之(3年)の力投や、「(8回表、1死2・3塁からの犠牲フライを落球した)エラーで迷惑をかけたので、チームを盛り上げたかった」浅野真矢左翼手(3年)の超ファインプレーなど、愛媛大会をノーシードから勝ち抜いた好チームの片鱗を示しながらも、初戦で姿を消すことになった宇和島東。
全国大会での初采配を終えた土居監督は「全国での戦い方が甘かった。もっと方向性を示せればよかった」と自分の力不足を責め続けていた。
しかし、それは本当に宇和島東だけの責任だったのであろうか?
試合当日、民放TVの解説を務めていた済美・上甲正典監督は土居監督を見つけると教え子の肩を抱き、優しくアドバイスを贈ったが、例えばそのアドバイスが試合1週間前だったら?また、岡部さんの感じたことが1週間前だったら?確かにこの試合、宇和島東は現状における最大限の力を発揮したが、同時に個の力だけでは前橋商に及ばないこともあらわになったはず。
となれば彼らに勝るためには、愛媛県勢がこれまで長きにわたり蓄積されてきた戦術を、あらゆる形を用いて駆使していくこと。それしかないはずだ。
ちなみに試合後の取材を全て終えた後、愛媛県から宇和島東の勝利を願い甲子園に赴いた報道陣は筆者を含めお互いに顔を見合わせて大きなため息をつき、中には悔しさに涙ぐむ者まで出るなど深い悲しみに包まれた。
すなわちそれは我々自身が愛媛県にとって高校野球は単にスポーツではなく文化となっており、甲子園で愛媛県代表が勝利することは「愛媛のアイデンティティーを全国に示す」大きな手段であることを日ごろの取材で痛切に感じているから。
もっと言えば「愛媛県代表の敗戦」は「愛媛県野球」もっと言えば「愛媛県民」の敗戦そのものなのである。
そして、その悔しさを最も受け止めていたのは「試合にならん」と私たち報道陣の前に目を真っ赤にして現れた平岡徹・愛媛県高校野球連盟会長その人であった。
この日、愛媛県民が味わった悔しさと反骨心がやがて無関心に移ろい、全国での挫折と栄光を知る選手たちと名将たちの記憶が薄れていくその前に。春夏合わせての全国大会及び夏の全国高校野球選手権大会の通算勝率首位の座も風前の灯となった愛媛県勢であるが、そんな今だからこそ、業界トップのイニシアチブの下で愛媛県高校野球の総力を結集し、各校ごとの勝利だけに拘泥する小事に捉われず、「愛媛県代表復権」という大事を全うするサポート態勢確立を一刻も早く望みたい。
(文=寺下 友徳)