都城東vs日大桜丘
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岩戸君(都城東)ホームイン
城東先制許すも一発で逆転、小杉投手も好投
三塁側城東応援席には「自律 友愛 実践 東京都立城東高等学校」と書かれた大きな横断幕がかかっていた。これは、1999(平成11)年夏に甲子園初出場を果たしたときに作られたものである。あれから、11年の歳月が流れて、当時のメンバーたちが結婚ラッシュだなどという話を聞くと、改めて年月の過ぎる早さを感じてしまう。あの時から城東の指揮官も有馬信夫( 現 総合工科 )監督→梨本浩司(現 広尾 )監督→平岩了監督と引き継がれている。そして、そこから東京都の高校野球勢力地図が確実に動き出している。そういう意味でも、城東の動向は目を離せないと思っている。
城東は打撃のチームで99年に続いて2年後にも甲子園出場を果たしている。しかし、昨秋は 四商 に1―0で勝つなど守り勝つ形でベスト16入りを果たしている。捕手出身の平岩監督らしいカラーになってきているという声もある。
初回、城東の小杉君は2死二塁から 日大桜丘 の四番此島君に先制打を右前に打たれ、続く古谷野君には右越二塁打されて2点を失った。やや投げ急いだ感もあったが、 日大桜丘 の打者もよく打った。
守りの野球をしたい城東にとって2点のアヘッドは最初からゲームプランが崩れたといってもいいかもしれない。それでも、その裏に1死一塁から三番宍倉君が左翼頭上を破る二塁打を放ち1点を返したのはさすがだ。
そして迎えた4回、九番林君の巧妙なバント安打に清水君の中前打が続き、バントで進め1死二三塁と好機を作ると、宍倉君が中堅やや左へ見事な本塁打を放って逆転した。柔らかい打撃の宍倉君は、振りも鋭くヘッドスピードも速いので打球が空中でグーンと伸びていく感じだ。初回の二塁打も、左翼手がびっくりするくらいに打球が伸びて頭上を越えていったものだった。
この3ランで試合の流れは城東に傾いた。4回には七番小川君、九番林君と下位の長打で加点。5回には四球の走者をバントと安打で進め大友君の犠飛で返す。6回にも、右線二塁打の小杉君を失策で返し、さらに続く好機は外野飛球2本で走者を返した。
2回から徐々に自分のリズムの投球ができるようになっていった小杉君も尻上がりによくなっていった。途中スローカーブなども交えて、彼本来の制球のいい投球でしっかりと打たせて取るという形を確立していた。4回以降は1安打に抑えているのも、投球術の巧さと、相手打線の隙を見つける牧田捕手のリードの巧さといってもいいだろう。牧田君はチーム唯一の2年生の小杉君を上手にリードしているという印象だ。
先制点は許したものの、初戦としてはいい入りができた城東だったのではないだろうか。平岩監督は、「宍倉は相手投手のスライダーの(指の)かかりがよくなかったのを巧く捉えたと思います。ただ、長打もいいですけれど、中盤で繋いでバント、犠飛で得点できたというのがよかったですね」と、あくまで長打に頼るのではなく、繋ぎの野球をして試合を作っていくという姿勢にこだわっていた。
ところで、城東の甲子園初出場から11年が経過したことに感慨があるのであれば、多くの人は記憶の片隅から消えかかっているかもしれないが、 日大桜丘 の全国制覇からは38年が経過している。その時は東京決戦となり、決勝の相手は 日大三 だった。はからずも今春の 日大三 のセンバツ準優勝はその時以来ということになる。改めて、年月を感じるのだが、当時の主将で捕手の常田昭夫氏は現在、東京都の審判員として球児たちを見守っている。柘植美之二塁手は現在 葛飾野 で監督を務める一方、都高野連役員として高校野球に尽力し、生徒たちを指導している。その一方で、エースだった仲根政裕氏はドラフト1位で近鉄入りし、やがて打者に転向して活躍したが、95年に肺癌で他界された。
日大桜丘 のユニホームはマイナーチェンジはあったのだろうけれども、基本スタイルとしては当時から変わらない2段重ねの「SAKURAGAOKA NIHON」というものである。そのユニホームに身を包む誇りと伝統と重さを、選手たちも改めて甘受してほしいと思いながら見つめていた。
(文=手束 仁)
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