Column

花巻東・もう1つの甲子園

2010.03.02

みちのく便り~心の高校野球~

 甲子園―。
すべての高校球児、とはいかないかもしれないけれど、たいていの高校球児がプレーしたいと目標にする場所だ。だけど、そこでプレーし、まばゆい光を放つことができる選手はほんの一握り。出られない選手の方が遙かに多い。たとえ、チームが甲子園に出られたとしても、スタンドで声を枯らす選手だっている。甲子園でプレーしている選手だけが高校球児じゃないし、それがすべてじゃない。高校生が野球を通して何を学んだか、甲子園を目指すことで何を学んだか、そして、それを卒業後にどう生かすか、それが大切だと思うんだ。

2009年、聖地に旋風を巻き起こした花巻東。誰もが、あのパープルのユニフォームの躍動に酔いしれた。大観衆の中、プレッシャーがある中、緊張感のある中、地元・岩手を誇りにプレーし続けた選手は凄かった。でも、試合に出てボールを投げ、捕り、バットを振った選手だけがスゴかったわけじゃあない。彼らの横には、同じように

佐々木洋監督

のもと、野球を極めた選手たちがいる。彼らの後ろや裏ではない。陰でもない。彼らの横で。ただ、高校野球の聖地で野球をプレーすることが許されなかった。でも、3年間、高校野球を全うし、人生の指針を学んだ。そんな彼らの高校野球を聞いてきた。

こちらから指名した選手ではない。流石部長にお願いし、佐々木監督にご推薦いただいた。流石部長が佐々木監督に説明すると、すぐに名前が挙がったという2人の選手。

山内健、小野寺諒。
流石部長は言う。「野球の技術だけじゃなく、人柄ですね。小野寺は成績が優秀。野球部で1番じゃなくて、学校で1番じゃないですかね。あの通り真面目な性格ですし。誰も小野寺に対して非の打ち所がないと思います。山内はみんなからの推薦で、甲子園でプラカードを持ったんですよ。一生懸命ですし、裏表もない。野球ではレギュラーになれなかったんですけど、間違いなく、生き方とか人間性はレギュラーですね、2人とも。どこに出しても恥ずかしくないですね」。
もう1つの甲子園が、そこにはあった。


山内健

 2009年3月21日、悔しさを抱えて、山内は甲子園球場のグランドに立っていた。
「自分はよくわかんないんですけど。大会が始まる前、宿舎に入ってから監督さんに言われまして」
 この日は、センバツの開会式。仲間からの推薦で、「花巻東」と刻銘されたプラカードを持っていた。
「緊張もしたんですけど、甲子園のグランドの雰囲気、歓声の中でやる雰囲気とかそういうのがよくわかりました。でも、やっぱ、立ってみて、ここでプレーしてみたかったなっていうのはあったんですけど、そうですね、まだ、その時点で春だったので夏にはここに帰ってきて、プレーできるようにがんばろうって思いました。いい刺激になったと自分では思います。そういう意味ですごくいい経験になりました。待っている最中とかには、室内練習場で違う高校の選手と一緒に写真撮ったり、話したりしたんですけど、今まで雑誌で見ていたことで『あぁ、今、自分やっているんだな』って(笑)他の人には申し訳なかったんですけど」
12日後の4月2日、再びプラカードを持つことになる。チームは11日間で変貌を遂げていた。でも、1点に泣いた。全国準優勝。

「負けてしまったので、悔しい・・・ほんとにあと一歩のところで負けてしまって、やっぱり落ち込んでいたので、その、貴重な経験はさせてもらったんですけど、決勝終わった後のプラカードの印象はあんまり残っていないです」
開会式と閉会式。明らかに違う「悔しさ」が胸の奥で交差していた。

 1991年4月27日、盛岡市で生まれた。幼い頃は、父親と一緒にサッカーボールを蹴っていたという。だが、ある日、愛用のサッカーボールが壊れてしまった。「壊れてしまったので、ボールを買い行ったのですが、たまたまグローブがありまして。それで、野球やるって」。サッカーボールを買いに行った帰り、手にしていたのはグローブだった。「お父さんの方もどっちかっていうと、サッカーより野球の方が知っていると言いますか」。これが野球との出会い。幼稚園に通っていた時だった。
 その日、さっそく軟式ボールでキャッチボールをした。しかし、「顔にボールを当てて、鼻血が出て・・・」。“野球デビュー”は散々。その後もボールへの恐怖心をぬぐえなかったが、なぜか、キャッチボールはやっていた。


 小学3年生の時、スポーツ少年団で野球部に入部した。
「土日は午前中、7時半か8時くらいから始めて12時には終わっていました。木曜日と月曜日に平日練習やったんですけど、その時もほとんど人数集まっていなかったりして。ゆるかったです」
強いチームではなかったが、外野手として鍛えられた。6年生の時にはキャプテンも務めた。

中学では盛岡東シニアでプレーした。
「自分のお母さんの知り合いにコーチをやっている人がいまして。その人から薦められて。その時にちょうど、雄星とか見前の人たちが結構いました」。
シニアでもポジションは外野手。
「シニアに入ってからちょっとだけ内野もやったんですけど、ちょっと、やっぱり、ボールが…速くて・・・怖かったです。内野で使ってもらっていて、でも…取れなくて…。球に反応できなかったです」。
 外野手としては肩が弱かったこともあり、サードを守ることになったが、いやはや、ボールを裁くことができなかった。「外野手に戻されて。まぁ、あんまり試合に出ることもなかったですけど、たまに出て…2試合とか続いた時は1試合出してもらったりはしたんですけど、自分はちょっとエラーとかしてすぐに変えられてしまったり。当時、ちょっと練習とかもあんま好きじゃなかったし、正直、土日だけだったんですけど練習。土日が来るのもつらかったですね。あんまり行きたくなかったっていうか。自分、走るのがちょっと苦手で。すごく走るチームだったので。夏もほとんどノックとかもしないで朝からずっと走っているようなチームだったので。すごくつらくて。何回か辞めようって、本当に辞めようかと思ったことも何度かありましたし、でも、やっぱり、自分、野球好きだったので、ここで辞めたらもったいないなというのもありまして、辞めずに済んだんですけど。冬は体育館練習なんですけど、ずっと走っていて。3時間…。大嫌いで、走るのはほんとに。小さい頃はそうでもなかったんですけど。小学校に入る前は、幼稚園でもリレーの選手とかで足も速かったんですけど、小学校で野球を始めてから食べるようになって、ちょっと太ってしまって、走れなくなってしまったんです」
ボールへの恐怖心もある。練習も辛い。でも、「野球が好き」この気持ちが支えでがんばれた。
「最初は野球自体がそんなに楽しいってことじゃなくて、周りの人たちと一緒にスポーツするっていうことが好きだったんですけど、その好きだったことがシニアの後半になってから上でもっとプレーしてみたいって気持ちに変わったっていうのはありますね」
 練習の辛さや厳しさから逃げなかったご褒美が、最後の最後に待っていた。
「自分、最後から1つ前の大会の時に背番号、3年生で一番後ろの背番号を付けさせられて、20何番とか付けさせられたんですけど、その時にもう、辞めようかなと思ったんです。でも、その時もう、あと1回しか大会もないし、ここで辞めたら後悔するって思って、最後までがんばって。最後の大会の時に背番号5をいただいて。試合も東北大会の準決勝でスタメンでライトで出させていただいて。東北シニアさんと戦ったんですけど、その時に出していただいて。その時は続けてよかったなと思いました」

辛く厳しかったシニアでの野球。花巻東には、憧れてその門を叩いた。
「シニアでやっている時、練習を見に行ったんですけど、その時、あいさつとか声とか礼儀とか、そういうのにすごく圧倒されて。このチームで野球やってみたいって気持ちがあって。決めたのはすごく早かったです。3年生の始めの方にはもう行きたいなっていう気持ちはありましたね」
合格発表の日、盛岡から父親の運転する車で花巻までやってきた。花巻に向かう、40分間は一切、しゃべらなかった。いや、しゃべる余裕なんて、なかった。その日の授業だって、まともに耳に入って来なかった。
 花巻東で張り出された受験番号を必死になって探すと、自分の番号が確かにあった。
 帰りの車の中は、来春からの希望で、その口が止まらなかったことは言うまでもない。


 2007年4月、憧れた花巻東野球部での生活が始まった。
「やっぱり、自分が思った通り、あいさつとか礼儀とかっていうのは、他の高校と比べものにならないくらい凄かったですし、先輩方とかも優しかったりして。最初は自分も馴染みやすいと言いますか、周りにも仲良い人とかもいましたし、同じ中学校だった人も入っているので」
 ポジションは外野手。2年生頃からB戦に出るようになる。だが、人数が多いため、そう簡単にレギュラーの座をつかむことは容易ではない。常に激しいポジション争いがある。
「3年春、東北大会に出場したんですけど、その際に監督さんから背番号7をいただいて、ベンチに入れさせていただくことが出来たのが一番の思い出ですかね。それまで1回もベンチに入ったことなくて」
 試合に出ることは、なかった。
「緊張はしたんですけど、いつもメンバーはこういう気持ちで試合に臨んでいるんだということがよくわかりましたし、良い経験になったとすごく感謝しています」
 この背番号7をもらう時、佐々木監督から告げられたことがある。
 「これが最後の大会だ―」
「自分が出られる公式戦として最後の試合。夏はちょっと厳しいということで、春に入れさせていただいて。自分がこうやってみんなとベンチに入って野球するのはもう最後だったので自分が出せる力は全部出していきたいと思いました。そう言われた時はやっぱり、ショックはありましたけど、この大会にすべてをかけて、それでもうあとはチームのために、チームが勝てるように頑張っていきたいなっていう気持ちでした」
 センバツ準優勝も、東北大会は1回戦で敗れる。
「試合に余裕が出来たら出していただけるということだったんですけど」
この試合に余裕は生まれず、唯一の公式戦出場機会だったが、チャンスは巡ってこなかった。
この東北大会が「最後の大会」だというのは、山内だけではなく、何人かが宣告されていた。みんなも、それはわかっていた。でも、無情にも東北大会1回戦のゲームセットは、彼らの高校野球の終わりを告げた。
「自分もう、終わったなって。あとは、野球、プレーすることもあまりないなって」
甲子園でプレーすることを目標に厳しい練習を積んできたことに変わりはない。
だから―。
「1回戦で負けてしまったことはすごく悔しい。今も残っているんですけど」
本音を言えば、公式戦に出たかったし、勝利を重ねてみたかった。
「でも、それはそれで、この負けがあったから、その後の県大会とかも勝てたと思いますし、東北大会で勝っていたらその後の結果も違ってきたかなというのはあります。そこでチームをもう1回立て直そうっていうことになったので」

 東北大会を終えると、それまで一生懸命バットを振っていた手に、スコップが握られていた。
 「もう、夏厳しいって言われた人が4人いまして、その4人であっちにある階段を制作しました。みんなが練習している時、自分たち、練習に参加することは出来なかったので」
グラウンドに行くには、1カ所、階段がある。室内練習場とグラウンドを結ぶにはちょうどいい階段なのだが、授業を終え、練習へ急ぐには、もう少し手前にあった方が便利。前年の卒業生がその階段作りに着手したのだが、雨に流されて崩れてしまった。さらに、県大会で敗れたため、完成を待たずして引退を余儀なくされたのだった。加えて、「毎年、卒業する3年生がチームに何か残していくっていう伝統みたいなのがありまして。それで今回、自分たち、あの階段作ろうってことで」というのも理由の一つである。
「正直、楽しかったです。あまり話さない人とかと一緒だったりしたので、その機会でよく話すようになったり、寮に帰ってから一緒に遊んだりとか、良かった面もありますね。4人で始めて、最終的に7人くらいで。まったく、設計とかなしで、自分たちの思った通りに掘って、木を見つけてきて。奥の方に行ったところに木がいっぱい捨ててあるところがありまして、のこぎり持って行って木を切って、持って帰ってきて。最初はふざけながらダラダラやっていたんですけど、みんなが練習していて、こんなダラダラしてちょっと悪いなって。そろそろ、いろいろやること増えてくるからやばいなと思いまして、超急ピッチで」
6月後半くらいから2~3週間かけて完成させた。大会に入るとチームの手伝いに力をいれるため、最後は急ピッチで作業を進めた。
「出来たときは達成感でいっぱいでした」
大きな、大きな仕事をやってのけ、夏に向かった。

「チームの手伝いと、相手チームの分析をやりました。ノックの補助とか、ランナーしたり、バッティングの時にピッチャーをしたり、守ったりとか、そういう感じですね」
 練習の手伝いに奮闘しているさなか、佐々木監督から珍指令を受ける。
 「監督さんに頼まれて、あっちに小さい木があるんですけど、それを植えるために取ってきてほしいと言われまして、木を掘りました。監督さん、『最近、盆栽が趣味だから』とか言って。みんな花巻球場に練習試合に行ったんですけど、自分、監督さんから頼まれまして、石をたくさん拾っておいてくれと言われまして。そっちの砂利から『綺麗な石とかあったら取っておいてくれ』と。自分、一生懸命、石拾っていました。試合に出ない人もあっちに行って補助とかだったんですけど。木は監督室の前に植えたんですけど、すぐ枯れちゃいました。根がですね、途中で切れてしまいまして、最後まで取れなくて。栄養剤も買ってきてさしたんですけど、すぐ枯れました。土をよくするためにミミズを探したんですけど、ダメでした。その後にブルーベリーも植えたんですけど、ブルーベリーもならないまま終わっちゃって」


夏に聖地に戻った時は球場は満員。雰囲気に圧倒された。

 そうしているうちに岩手を制し、甲子園に戻ることになった。

 「春も夏も行って、若干、慣れみたいなのはありましたけど、すごく楽しくて、いい思い出になりました。春と夏のスタンドの違いっていうのは、県民の皆様がすごく応援に来てくださって。バスでツアーとかあったみたいなんですけど、それでたくさんの人が来てくれまして、1回戦から満員で。すごく圧倒されました」
 岩手県民、日本国民の期待とは裏腹に、花巻東はエースの故障で苦しい戦いが強いられていた。
雄星がいなかった時は、どうにかしないといけないなっていう部分はありましたし、選手だけじゃなくて、補助に回ったメンバーも今まで以上に力入れて分析とかをしていました。小野寺とかは本当に寝ないで毎日。応援に行って、帰ってきてすぐ相手チームの分析を夜までして、また練習に参加してというハードなスケジュールだったんです」
グラウンドでプレーしている選手には惜しみない拍手が送られて、大きな声援が送られる。辛い、きつい状況を、それで乗り越えられる時もある。でも、その裏には拍手が送られることも声援が送られることもなく、ただひたすら、チームの勝利に向かって働く姿がある。そこまでの拍手と声援があってもいいと、思う。
夏はあっという間に駆け抜けていった。

「秋は国体に出場することが決まっていたので、練習を続けて。自分は大学でも野球を続けるので、自分の練習もしっかりやりながら」

大学は、富士大学に進む。
 「指導者になりたいんですけど、富士大学で保健体育の教員免許を取れるので、そこで資格を取りたいなと思いまして」 体育の教員免許を取る予定だが、教員志望ではない。
「自分、指導者っていうのは、学校の指導者っていうこともあるんですけど、少年野球の監督をやりたいと考えていまして。ずっと野球を続けていて、自分がこう、花巻東とかで学んできたことを小学校の時点とかで教えていきたいっていう気持ちがありました。あいさつだったりとか、礼儀だったりとかを小学生のうちから教えていきたいと。野球をやること以上に大切なことだと思いますので。大学でマジメに勉強して、土日に休みを取れないと厳しいんで、頑張って公務員試験を受けたいと思っているんです」

 野球は、昨年の大学選手権準優勝の硬式ではなく、準硬式で続ける。
「練習に参加させていただいたんですけど、ここだったらがんばっていけるかなというのがありました。上級生と下級生の差別っていうのもなかったですし、すごく仲良くやっているチームだったのでとけ込めやすいかなというのもあって。あと、硬式だとちょっと厳しいかなと。経済的な面もありましたし、周りのレベルとかもあったので、硬式だと厳しいかなというのがありました」

 花巻東の今年の3年生は指導者志望が多い。山内が少年野球、佐藤涼平が中学野球、川村悠真が高校野球・・・。花巻東には恩師がいる。
「一応、そういう計画はあります。系列を作ってやろうかみたいな話しをしていますね。花巻東にも送って、川村のところにも送って、対決させて(笑)」

 もう1つ、夢がある。
「自分は、自分のチームを立てて、それで全国制覇したいって思っています。自分、子どもに野球をやらせるつもりなんですけど、野球を始める前に、一回家族で旅行に行きたいなと思っています。野球が始まってしまうと、土日とか休みがないんで、その前に家族でハワイに行きたいなと。ハワイは行ったことないんで、楽しみに。野球が始まってしまうとですね、ずっと野球になるので行きたいとこも行けなくなるので。27歳でハワイに行く予定なんですけど。他にもいろいろ買いたいので、お金を貯めて。時計も買いたいですし、車も買いたいですし」
夢は広がるばかりだ。大学では、公務員を目指して、勉強にも力を入れるという。
「自分の将来もあるので。野球ばっかりやっているわけにもいかないので。しっかりやろうかなと」
ちなみに、高校の時のお勉強の方は?
「あ、ちょっと・・・。全然。高校だけじゃないんで。小学校も中学校もそんなに成績よくなかったんで、そろそろ頑張ろうかなと」

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小野寺諒

佐藤涼平曰く、「ボケが深い」らしい。みんなを笑わせようとしても、みんなの頭が付いてこないという。時間が経って、「あぁ、そういうことか」と。
勉強は、出来ないよりは出来た方がいい。
「教養コースって100人くらいいるのですが、その中でずっと2番でした。1番は女の子なんですけど、その人には勝てなくて」
教養コースの男子では1番。いくら授業を真面目に聞いていても、野球を続けている中でトップに食い込むのはやっぱりスゴイ。野球でみんなを引っ張ることはなかったけれど、勉強の面ではリーダーだった。
得意科目は、佐々木監督の日本史だそうだ。
「面白いです。すごく話しが面白いんです。野球部で言っていることと同じなんですけど、歴史の流れでもいろんなことを混ぜて、人生のこととかを混ぜながら授業するのですごいためになります」楽しい!とか、面白い!と感じた瞬間が最も伸びる瞬間。出来ないことが出来た。分からなかったことが分かった。スポーツだろうと勉強だろうと、その快感がいずれは力になる。

宮城県との県境、岩手県一関市千厩町の出身だ。幼い頃、父親とキャッチボールをした程度。本格的に野球を始めたのは、小学校3年生の時。
「県大会には出ていたんですけど、2回くらい勝って、あとは負けていたので、ベスト16くらいだったかと。指導はそんなに厳しくなかったですけど、練習時間は、毎日16時から19時まででした。月曜日は休みだったんですけど、あとは毎日。夏休み、冬休みもお盆と正月以外はほとんど毎日練習でした」
 ポジションはキャッチャーだった。

 千厩中では野球部に入部した。
「1年生の新人戦くらいから外野で出ていて、自分たちの代になってピッチャーとかキャッチャーとかやったんですけど、最終的にはセンターでした。チームの成績は県大会出場くらいでしたね」
 誰もが頭を抱える進路を選択する時期になった。
「最初は地元の千厩高校でやろうと思ったんですけど、進路を考えていた10月くらいに花巻東高校も調べて、ここで野球をやりたいなと」
晴れて合格を手にした。

 「厳しいということは知っていたんですけど、予想以上というか。想像以上だったのはありますね。練習が厳しいのは分かっているんですけど、生活が思っていたより厳しくて。時間が、自分の時間がないというか。夜遅いのはビックリしました。練習時間が終わるのが遅くて、寮に帰るのも遅くて、寝るのも遅くなるという。朝は6時20分に点呼なんですけど、それからすぐに食事取って、7時10分くらいからは朝練でした。上級生になってもそんなに楽にはならなかったです」


 想像では追いつかない高校野球の現実。その現実と戦いながら、野球の腕を磨いていった。
1度だけ、公式戦でスタメン出場した試合がある。
「地区予選だったんですけど。3年生の春の地区予選の1回戦にスタメンで出していただきました。7番レフトで。それが最初で最後ですね。2打席だったんですけど、満塁でセカンドゴロを打って、ゲッツー崩れで1点取りました。あとはセンターフライでした」

その前、2年秋の東北大会で初めてベンチ入りしている。だが、チームは準決勝で敗れ、春は絶望的。小野寺自身の出場機会もなかった。しかし、その3月後、センバツ出場の吉報が届く。この時はまだ、他のチームの方が注目を集めていた。数ヶ月後、まさか、あんなことになるなんて。
東北大会でベンチ入りするも、センバツではベンチを外れた。甲子園のグラウンドに立てないもどかしさと戦いながら、他チームの分析など、チームの補助に徹した。その結果が、準優勝。気づけば、日本中が花巻東の野球の虜になっていた。

 3年春の地区予選で再びベンチ入りしたわけだが、センバツで準優勝し、花巻東フィーバーのまっただ中だった。
 「センバツが終わって帰ってきてからの1試合目だったので、観客も増えて、注目されていたので、試合に出るというのはこんな気持ちなのかなっていうのは体験できました。『ミスできない』と、ずっと、緊張していて気を抜けない時間でしたね」

 

 その後の県大会で代打として1打席だけ立った。それが高校野球最後の打席。結果は四球だった。3年間で計3度のベンチ入り。試合出場は2試合だった。
「春の東北大会では付いて行って、夏に向けて練習していたんですけど、東北大会が終わって、夏までの間に遠征があったんです。でも、その遠征のメンバーには選ばれなくて、そこで自分では夏、難しいのかな、と考え始めて。それで、7月入ったくらいに自分から補助に回ろうと、そっちの仕事をし始めました。こういう仕事が毎年あるのわかっていて、去年の先輩とかもやって、知っていたんので。これもチームが勝つための仕事。これが少しでも欠けたら負けるんだろうな、とか思いながらやっていました。ノックの補助とかでも、こういう人がいなかれば練習も進まないだろうし、他のチームの分析にしてもチームが勝つために必要ことなので。あと、途中から階段も作りました。やりたいとかいうわけじゃないんですけど、その時期はそれしか仕事がなかったので。正直、それが終わってからは何したらいいんだろうな、って感じでウロウロして、仕事を探している時期もありましたね」


【自分の仕事に徹した最後の夏】

 だが、それも束の間。最後の夏が、刻一刻と迫っていた。
 「メンバーは大会っていっても変に緊張しているって雰囲気ではなかったので、一緒にいても楽でした。目標は上にあったので、ここ(県大会)は通過点だみたいな感じでした(自分自身は)自分の仕事やるだけでした」
 自分の仕事。約10人で交代制ではあったが、特に力を入れたのは、分析だった。しかし、県大会でミスが起きた。
「トーナメントなので、次、どっちが来るかとか難しいんです。予想していない方が勝ってきて、そっちの準備ができてなかったってことがありました。もう、補助の人、全員が怒られました。監督さんは部員全員の前で怒ったんですけど、まだ先があったので、先でそういうことが起こらないように、甲子園に行っても起こらないようにするために反省させるような言い方でした」
 ゲームセットの瞬間まで勝ち負けはつかない。でも、それまでの戦いぶりや学校名の固定観念で勝敗を判断してしまう時がある。

 この一件で猛省。岩手を勝ち抜き、甲子園球場に戻ってきた。
「分析はセンバツの時もやっていたので、そんなに難しくはなかったです。ただ、試合数多いので、夏は。あと、トーナメント表も難しいんです。

ベスト8でもう1回抽選するので、その時点では全部終わらせておかなくて。いきなり(組み合わせが)遠いところから来たりするので。そういう意味で夏の方が難しかったです」

 宿舎では分析。試合は応援。
「大変ですけど、その時期限定だと思えば、乗り越えられないこともない感じでした。どの試合も負けっていうのは考えなかったです。きつい練習を乗り越えたくらいだから、他のチームには負けないだろうと、負ける気はしなかったです」
 しかし、高校野球の終わりはやってきた。
「負けた時、あれは雄星がアクシデントで、途中で離れたんですけど、最後までどうなるかわからないので、最後まで応援していました。他のやつらは、グラウンドにいる人たちはあきらめていないだろうと思って、上(スタンド)の人も本気で応援していました」
 願いは届かなかった。

夏は、とっても短かった。気づけば秋。
 「自分、公務員試験を受けたんです。落ちたんですけど、甲子園が終わってからは、その勉強をしていました。なので、国体は行っていないです。公務員試験では、一関市の職員で1次は受かったんですけど、2次で、面接のところで落ちました。周り、みんな専門学校生だったので、ちょっと厳しかったです」
 公務員試験の結果は残念。でも、気持ちを切り替えて、進路を考えた。
 「年が明けてから志望校を決めました。指定校推薦だったんですけど、まだあったので。これから2月の6日に入試に行ってきます(取材は1月16日)。大学では中学校の国語の免許を取りたいと思っています。国語はあまり得意ってほどじゃないですけど、興味はあります」
 大学では、野球を続けない。
「もう、やらない予定ですけど、中学校の先生になったらいつかは野球部の顧問になったりするのかなとは思っています。でも、指導者になりたいというのはなくて、勉強して、先生として極めたいというか。勉強していきたいと思います」

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修学旅行

小野寺(以下「小」) 自分ともう一人、小原っていうのがいるんですけど、その二人で関西でした。

山内(以下「山」) 自分、沖縄でした。3つのコースから選べれるんです。修学旅行の時はまだ選手だったんですけど、そん時だけはやっぱ、野球のことを忘れて、もの凄く楽しかったです。夜とかも遅くまで起きてみんなでトランプしたり。エメラルドビーチとかにも行ったんですけど、その時に他校の生徒と話しをしたりしました。

「小」 関西は、普通に観光していたんですけど、沖縄に行った人たちからは「甲子園で関西に行けるのになんで関西行くの?」って言われました。でも、観光は別なので。見たいところを見るには、修学旅行の方が。

「山」 実は面白くなかったっしょ?(小声)

「小」 面白かったよ。

「山」 お寺とかばっか巡っているんでしょ?

「小」 そういうのが好きだったの。

「山」 小原とか絶対好きじゃないっしょ。小原だって、あれでしょ、何だっけ?

「小」 何?

「山」 ジャパン、ジャパン。

「小」 あ、USJ?

「山」 うん。

「小」 USJに行きたかったから?

「山」 USJであれでしょ。ジェットコースター乗ってないんでしょ。

「小」 1個ぐらい乗ったよ。あまりいい思い出は・・・。

「山」 小原、乗りたかったらしくて、誘ったんですけど、乗れなかったって。

「小」 ちょっと具合悪くなって。でも、観光は、いいもの見たなと。薬師寺のお坊さんの話が面白かったです。

「山」 そんなの聞いて面白いの?(小声)

「小」 面白いよ

「山」 そんなの聞いても面白くねぇよ。

「小」 なんか、ギャグというか。お笑い芸人みたく言うんですけど、マジメな話しもあって、すごい、面白かったです。

「山」 もう1つのコースは韓国なんですけど、前の3年生、韓国に行った人が多くて、韓国は、沖縄と関西よりも1日早く出発するんです。でも、そうすると練習が。自分たちでは韓国はそんな行かなくてもいいかなって話しになって。あまり気を抜くところがなかったんで修学旅行、ほんと超楽しかったです。あの前の日の練習はね?

「小」 ん?

「山」 修学旅行に行く前の日の練習は凄かったよね。そっちの方にばっかり頭が行ってて、変な意味で練習、盛り上がっていました。みんな、なんか、もう、バカみたいにふざけながらやってたりして。いつもとは明らかに違う感じの雰囲気で。いつもだと、こういうの乗り切ったら甲子園の舞台に立てるんだとか、そういう話しをしていたんですけど、その時だけは、今日を乗り切ったらあしたから修学旅行だぞとか、そういう感じでした。

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花巻東で学んだこと

「小」 目標を立てさせる回数が多かった。

「山」 あるね。

「小」 テストの時でも練習の前でも、1年に4回、5回、6回、目標を立てることが多かったですね。

「山」 目標を大事にする高校だから。

「小」 ライバルを決めたり、テストだったら目標点数とか決めたり、どの教科で何点取るとか、平均点と順位とかまで数字で決めて作っていました。練習でも筋力だったら数値で表せるので数字で目標を立てていました。目標をいろんなところに置くんですよ。天井に張ったり、練習の時に持ち運べるようにしたり、毎日、日誌に書いたりして。忘れたときにしっかり思い出せるようにという機会はたくさんありました。

「山」 自分は、テストの点数の目標は、一応、小野寺が3年生で一番点数がよかったので、目標にはしていたんですけど。多分、小野寺の点数より30点くらいは下だなっていう(笑)目標は大きく立てていいんですけど、そこに行くまでは少しずつ上がっていかなきゃいけないので、そこも考えて、大きいのを立てた後に小さいのも立てながらコツコツと。

勉強ではもう、小野寺みたいになれれば、将来も有望だなと、考えながら(笑)毎回、小野寺にしていたんですけど、3年生の途中からは小野寺の点数は厳しいなということで考えまして。
で、雄星に、あ、自分、雄星と同じクラスだったんですけど、雄星に目標を変えたんです。でも、その時から雄星が点数上がっていって、雄星、80点とか取るようになってしまったんで、ちょっと、また・・・。80点だったらいけるかなと思ったんですけど、結局、20点くらい足りなくて、残念っていう結果に(笑)
小野寺 自分は、目標は点数だけだったら後輩の方が高かったので、後輩を目標にしていました。下の学年に点数高い人がいたので。たぶん、3年生より2年生の方がテストの点数いいです。自分の平均、高いところで87点だったんですけど、82点くらいでずっと。キープしていました。

「小」 目標を変えるの遅かったんですけど、花巻東のテストだから、今までよりは点数取れるかなということで。1年生の時はそんな悪くなかったんですけど、70点くらいだったんで、まだいけるな、がんばればいけるかなって思ったんですけど、ちょっと。目標を雄星に変えたんですけど、雄星は3年生から勉強頑張っていまして。

「山」 ああ、がんばってた。

「小」 野球がずっと続いていたんで、勉強にあまり力入れていなかったんですけど、力入れなくてもそこそこ取れていたんです。3年生になって、しっかり勉強もやろうってことになってから雄星がすごい頑張りだしてしまいまして。
小野寺 学年で3年生の野球部の点数が低いって怒られることがあったんですよ。それで、雄星もやばいなと思ったと思うんですけど。

「山」 1回、すごい怒られた時あったよね、雄星。

「小」 怒られたね。

「山」 3年生が怒られたんですけど。

「小」 全体ですね。

「山」 とりあえず、雄星がチームを作っているようなもんだからおまえがちゃんとやんないとチーム周りが付いてこないってことを言われて。それから雄星、すごい頑張りだしてしまいまいて。目標にしていたのに、離れてしまって。

「小」 勉強がダメだと何しても怒られるので。

「山」 思わぬ誤差が。自分たちのクラス、テストを見せ合っていたんですけど、自分と雄星と、あともう1人。自分はもう1人と結構いい勝負で。3年生になってから自分は1回も負けていないんですけど、そこそこいい点数をやっているんですけど、雄星は20点くらい上。どのテストを見せても勝てなかったです。野球でも負けて、テストも負けて、ちょっと悔しいです。何か1つでも勝てればいいなと思っているんですけど。あ、バドミントン勝てます!体育の授業でやったときに。あとはダメです。最後のテスト、自分は、小野寺を目標にします。雄星、今、あっちに行っていて勉強していない状況で戦うので、ちょっとフェアじゃないので小野寺で(笑)

「小」 自分は、3年間で一番いい成績を取れればいいなと思います。授業でしっかり勉強しています。

「山」 あ、監督さんの日本史は毎回、テスト返されるときに正座させられています。みんなの前で。自分ともう1人が50点以下で(笑)1学期は74点だったんです。野球部の目標が75点以上ということで、その時は74点でもぎりぎりセーフだったんですけど、次のテストが53点ですかね・・・その次が55点で、正座させられました。教卓ありまして、そこに。みんなの方向いて・・・(笑)ちょっと、もう、嫌です。恥ずかしいんですよ、あれ、すごく。取りたくて取っているわけじゃないんですけど。小さい目標としては、正座を避ける。もう、正座することがマンネリ化しているっていうか(笑)テストになったら自分ともう1人は正座みたいな感じですね。下手すれば75点取っても正座かもしれないです、もう、すでに。板について。

「小」 大丈夫。次のテスト、返却されないから。

「山」 そうなの?やったぁ。

「小」 テスト受けて、それでもう終わり。

「山」 そっか。やった。

「小」 あと、時間の使い方というのも意識するようになりました。時間は限られているので目標に向かってどういう行動をしていかないといけないかというのを。

「山」 あと、俺は周りとの関わりっていうか、つながりとか。人間と人間のつながり。甲子園で勝ったのもチームで戦ったから。チームが一体になったからあそこまで勝ったし、辛いこともチームで支え合いながら乗り越えられた。周りでずっと、24時間ずっと一緒に生活している中で苦しいことは支え合ったり、うれしいことは一緒に喜んだりとか、そういうことの大切さっていうのは、よくわかりましたね。花巻東での3年間、俺は、よかったかな。

「小」 充実していました。

「山」 入って、後悔はないですね。

「小」 すごい、学べたことは多かったので。

「2人で」 他の高校では

「山」 学べないことを

「小」 それはすごい、思っています。

「山」 他の高校の選手とかに聞いてもやっぱり、目標はあるんですけど、漠然としている目標が多くて、細かいところまで、そこに行くまでのスモールステップの部分がない高校が多いなと。ただ甲子園に行きたいとか優勝したいとかっていうことを目標に上げている高校はたくさんあるんですけど、花巻東みたいに、そこにいくまでの今日の目標であったりとか、今週の目標であったりとか、そういう細かい部分の目標を立てないところが多かったので、その面ではこの高校はすごいなって思いますね。いつも、監督さんがおっしゃっているのは、今は野球のことで目標を立ているんですけど、いずれは人生に生かしていけっていうことをよく話されているんです。その通りだなと思いますし、今から社会に出て、大学に行く人もいますし、社会人になる人もいるんですけど、どっちでも、目標を持つことは大事だと思います。そこにいくまでの段階を踏んでいくのも大事だと思うので。将来にも使えるいいことを学んだと思います。

「小」 体力とか筋力とかは年を取っていくと衰えるので、最後、一番大事なのは頭というか、普通の勉強だけじゃなくて、生きていく知恵みたいなことが大切だとはよく言われました。

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この記事の執筆者: 高校野球ドットコム編集部

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