俳優 上地雄輔さん
第6回 俳優 上地雄輔さん2007年12月3日
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名門・横浜高校で背番号2番をつけ、松坂大輔選手とバッテリーを組んでいた上地雄輔さんにインタビュー!横浜高校での思い出や秘話を伺ってきました。
横浜高校入学のキッカケ
上地雄輔さん(以下「上地」) 当初はそんなに横浜志望ではなかったですね。
――それは何故ですか??
「上地」 最初初は常総学院に行きたかった。木内さんの下でやってみたい気持ちがありました。中3の時の夏の大会で、横浜商工(現・横浜創学館)とのベスト4の試合で相手が横浜高校で。以前から監督さん部長さんに声をかけて頂いていたんですけど。。。
何度も何度も声かけてもらっていて、でも行かないって言っていたんですね。(笑)たまたま横浜商工には中学の先輩がいっぱいいて創学館を家族みんなでテレビで応援していたんですけど、その試合に丹波さん(横浜)が1年でいきなり出てきて、ばたばた抑えていて、この人の球を受けてみたい!!とそれだけでテレビを見終わって、「俺、横浜行く!」って言っていました。
実際、高校に入学して、一番最初に球を受けたのも丹波さんだし、バッテリーだったので一緒にジムに行ったりしてホントに面倒みてもらって。監督さんも丹波さんに「こいつよろしく頼むな。」ってそんな感じでホントお兄ちゃんみたいな感じでした。
横浜高校時代
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横浜高校(写真は07’秋季大会より)
――横浜高校に入って驚いたことは??
「上地」 ん〜何にも無かったですね。1年春から練習試合にも出てたし、丹波さんとバッテリー組ませてもらったりしていて自分でも将来にめちゃめちゃ自信がありました(笑)
――2年でベンチ入りしていますよね??
「上地」 そうですね。ただ2年の夏の大会で怪我をしてしまいました。
――3年時は怪我との戦いですか?
「上地」 1年間のうち10ヶ月はリハビリでした。ホントに最後のギリギリ、ギリギリで背番号を取り返したって感じですね。
――怪我さえなければプロ野球も見えていたのではないですか?
「上地」 いえいえ。それは言い訳です。無理だと思いますけど。でも、確実に怪我さえしていなければ、この仕事をしていなかったと思いますね。
――やはり野球で行けるとこまで行こうと思っていたのですか?
「上地」 ん〜。そうですね。怪我が無かったら、野球で大学に行くのが当たり前だと思っていたし。やっぱりリハビリしている期間にいっぱいいろんな事を考えて、将来の事とか、親、監督、仲間、ファンの事を考えて、「ちょっと待って下さい」と監督に伝えました。小学校・ジャパン。中学校・ジャパン。高校・横高。大学・野球。社会人といきそうな野球の流れを1回停めて考えたかったので「ちょっと待って下さい」と監督に伝えました。
芸能界へ入るキッカケ
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気さくにインタビューに答える上地さん
――その時、芸能界に入ろうと思ったのですか?
「上地」 いや。その時は考えていませんでした。その後、スカウトされました。俳優さんには失礼だけど最初はバイト感覚。幼稚園から野球を始めて野球しか知らないので俺なんかできるわけ無いと思ってました。たまたま4月からのドラマのオーディションに受かって1ヶ月前から撮影だから、大学に入っても野球できない。だったらやるしかない!みたいな。凄くいい加減な入りです。
――野球をやっていて活きていることはありますか?
「上地」 最初は分からない事が多くて、野球の練習方法は分かるけど、役者は何をすればいいって言う答えが無いから難しかったですね。何が役に立って何がたたないのとか。だから気持ちの持ちようを学びました。チョットした事を大事にするとか。野球って凄いじゃないですか。社会に出て絶対役に立つと信じています。
普段から何にでも野球に置き換えて考えています。俳優業はいろんな人と合います。仕事で連ドラといっても3、4ヶ月なので、その後はどのくらい仕事が来るか分からない。水物の仕事なので、その瞬間、瞬間を野球に置き換えて考えていますね。
状況判断を良く、いい球を投げようとしています。いい球投げないとキャッチボールじゃないけどいい球が帰ってきません。どんな仕事でも野球に置き換えてやってます。それはお芝居でもバラエティーでも瞬発力、状況判断が求められるので非常に役に立っていますね。例えばランナーが盗塁した時、スタートが良かったから瞬時に判断して打つの止めようとか。そんな感じです(笑)
結局、俳優業は形の無い物を作り上げなくてはいけないから何にも無いところに「さ〜こい!」という状態だから自分の中でいつでもスタート切れる状態にしておかないと考えちゃうと固まってしまう。一球想像しない球が来ると動揺して後手、後手にまわる。そういうのが怖いから常に余裕を持って「俺って平気でっせ〜!」みたいな感じで構えています。
野球頭って世間で通用するじゃないですか。野球やっていると上下関係もしっかりあるし、どんなにいい加減な奴でもわきまえなければならない所って空気で分かるじゃないですか。すごい強みだと思いますよ。
上地雄輔さん野球の勧め
「上地」 子供のころから帽子をとって挨拶するのも身に染み付いているし。帽子とって挨拶するスポーツって野球くらいでしょ。人様にボールとってもらったらこんなちっちゃなくりくり坊主でも帽子とってありがとうございました!!って。そういう挨拶をする事を当たり前に思っている少年って今少ないと思うんですよ。
俺らの周りでも野球をしている人が当たり前に挨拶をしていると、野球をしていない人も自然に挨拶していたりとか。野球は絶対やったほうがいいですよ!!
怪我を振り返って
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「高校時代は常に野球の事を考えていました」
「上地」 高2夏の3回戦、試合の途中でやってしまいました。ボールバックでキャッチャーがセカンドへ投げるじゃないですか。その時でした。
それまで元気だったんですが、その時「ブチッ」ってやっちゃって、投げれないし打てないし。2イニングくらい頑張ったけど。試合中「お前おかしいだろ」って監督に言われ、ベンチで見たら腕がすごく腫れていました。3年生の夏の大会で俺がアホやったら終わりだから…泣きそうになりました。
頭は朦朧とするし、3年生負けたら最後だし、しかも3回戦で負けたら洒落にならないから。もともと緊張しないけど、あの時の打席は今までのどんな状況よりも緊張した〜。冷や汗が… 結局優勝して甲子園でも怪我が直ったら(ベンチに)入るってはずだったけど、足も怪我してしまって。一人、新幹線で甲子園から帰郷。終わった…って思いました。片手片足動かないし。丹波さんの事もあり「俺なにやってるんだろう」と思いました。(新チームに入っても)ちゃんと普通に練習したのは3ヶ月くらいですね。
――その間は??
「上地」 筋トレもできないし、何をやっていいのか分からなくて、気持ちが萎えそうでした。神経に障るのでランニングもできないし。ホントに24時間すべて野球の事を考えていたから。私生活のすべて。電車に乗る位置とか。(動体視力を鍛えるトレーニングをしていたそうです。)こっちの球にはミットをこうだすとか。バックは右肩ではかけないとか。
すべて野球中心だったのが、何をしていいのか分からなくて。野球はもうできないと思ったし。だけど最後の最後1月に別の病院に行ったら、「今までの病院は何をやっていたんだ」と言われ、「すぐ入院、手術しなくては駄目だ。それでもフィフティーフィフティーだ。」と言われて。それでも可能性があるならやって下さいと言って手術しました。
――それでは夏までは急ピッチな調整だったのですね。
「上地」 2月の頭くらいからリハビリ初めて、4月の頭くらいからっキャッチボールを初めて、関東大会には間に合いました。予選では25番で(ベンチ入りして)関東大会で投げれるようになって2番になりました。本当にギリギリでした。あれが最短ですね。とりあえず間に合ってよかったです。投げるのがめちゃくちゃ怖くなったけど、ただやるしかなかった。後1ヶ月ですからね。
高校時代に特に印象に残っていることは?
「上地」 怪我から復帰した関東大会前橋工業戦で松坂(大輔・ボストンレッドソックス)に首を振られたことですね。
――それまでは松坂投手に首を振られる事は無かったのですか?
「上地」 そうですね。うちは基本的に部長がデーターを集めて、叩き込まれるから基本はキャッチャー主導です。だから打たれたらキャッチャーがめちゃめちゃ怒られるんです。
そのときは延長戦に入って均衡した状況、一打同点の場面で絶対スライダーなら討ち取れると思ってサインを出したんですが、首を振ってきたんです。僕も一応先輩だから「駄目、駄目、駄目!スライダー投げなさい!」ってサイン出したんだけど、また首を振るから、キャッチャーも意地になっちゃって。
でも最後は「分かったよ」ってストレートのサイン。それでパコーン!!って打たれたんです。でも凄く嬉しかったです。俺も笑って、あいつも俺見て笑って「スライダーでしたね」って。バッテリーってこういうことだなって。あいつが意思を表したのが嬉しかったし、自分のストレートに自身を持ったなっていうのも嬉しかった。
自分は別にすごく打ったわけでもないし、肩が強いわけでもないし、結構リードとか状況判断とか野球のずるがしこさで2番を捕ったっていうキャッチャーだったので、みんなからリードを信頼されていたのであんまり首を振るピッチャーがいなかったんです。だから余計に嬉しかったですね。僕に首振ったのはあれが最初で最後でしたね。
高校時代の考え方
「上地」 どんな強豪とあたっても勝てると思っていましたね。うちが絶対負けると思ったチームはなかったですね。秋負けたからずっと無敗だったし。絶対どこでも勝てる、でも下手すると負けちゃうかもしれないから気を抜くなみたいな。
――凄いですね。
「上地」 その分、野球を勉強しました。24時間野球ですから。練習だと気づかないけど、他校と練習試合やって気づきますね。この高校は練習やってないから簡単に打てるとか。すぐ癖を見抜けるとか。みんなでこの投手の癖分かるよなとか言いあっていました。簡単に盗塁できたり。うちは基本的に筋トレとかあまりしなくて、ほとんど実践に即した練習をやっていました。
こういう回で、こういうカウントの状況で、ケースバッティングとか。無駄な時間は絶対に使わずにフリーでもネット一杯立てて走塁練習とかバッターもカウントとか状況とかを自分で決めて打つ。だから指導者もフリーのバッティングについてあまりどうだこうだ言わない。それは監督も見ていて分かるから。泳いでいたら「こいつ今自分の中でエンドランの練習しているな」とか。みんなも分かる。勉強頭はさっぱりだけど、野球頭はみんな凄かったですね。
横浜高校を卒業して
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右:恩師渡辺監督 (横浜高校)
左:恩師小倉部長 (横浜高校)
「上地」 横浜に行って良かったです。チームメイトも先輩も後輩も監督も良かったし。ホントに横高出身の人はみんな横浜でよかったって言ってる。お前と会えて良かったみたいな。クラスが3年間一緒という事と同じ合宿所っていうのが大きかったかな。何年ぶりにあっても久しぶりな感じがしないしでも何億つまれてももう一回高校時代には戻りたくない。(笑)
でもみんな横浜行って良かったって言っていますね。それって凄い事だと思います。行って幸せだったって思わせる学校。指導者もしっかりしているし。監督はホントにいい人。今でも会いに行きます。社会にでるにあたってのいろいろな事を教えてくれました。野球の技術は小倉部長。あの人は凄いよ!!野球の天才。よくそんな事思いつくなって。セーフティースクイズを考えたのは小倉部長だから。
――そうなんですか!!
「上地」 監督さんは投げ方打ち方走り方などからだの使い方を教えて。小技は小倉部長。最後の選手としての仕上げは小倉部長が料理する(笑)
――いい具合にバランスが取れていますね。
高校生へのメッセージをお願いします。
「上地」 野球ってどこにでも宝物が落ちているからそこを見逃さないでほしい。先程のカバンの持ち方とか。お風呂に入っていてもトレーニングできるし、考え方一つで野球って上手くなる。例えば打てないのなら何がいけないのかを考える。肩が入りすぎているのかとか。タイミングが遅いのかなとか。普段が重要。普段から考えて、それをグランドへどう持って行くかで、練習自体も変わってくる。試合でどうだったかではなく、練習で打てなかったら、じゃあどうしようかって考えないと。
その日の練習が無駄になる。試合がすべてではなく。バッティング練習でいいから、なんであの球が打てなかったのかを毎日毎日一個ずつ追及する。宿題を家にもって帰って対策を練って家で練習する。一個一個がすべて野球。それが気持ちの部分で自信になるし、これで打てなかったらしょうがないでしょって。打てない・守れないっていうのは絶対理屈があるから。だって上手い人がいるでしょ。考え方で甲子園にいける!!甲子園は日頃の鍛錬でいける。1点差で負けるってそこだと思う。そこが大事って言われてたし。ベスト16クラスの実力の高校なら絶対行けるぜ!!って言いたいですね。