伊野商vs室戸・高知丸の内・高岡・幡多農・宿毛・清水連合
6校連合、痛恨のスクイズ失敗で金星逃す
6校連合ナイン
最後は現在・再び「男にしてくれた場所で」副部長を務めている山中直人監督の下、1985年センバツ初出場初優勝・1987年夏甲子園出場を果たした当時のまま「INOSHO」のロゴが胸に輝く伊野商の集中打に屈する形にはなったが、この試合における主役は間違いなく今夏・石川県で結成された金沢伏見・穴水・金沢辰巳丘・金沢向陽・宝達・加賀連合らと同じく全国タイとなる6校連合チームで組まれた「室戸・高知丸の内・高岡・幡多農・宿毛・清水連合」であった。
室戸は2007年センバツ初出場ベスト8・宿毛も1994年夏甲子園出場という栄冠を持ちながら、現在の部員は室戸が選手4人(3年生2名・2年生1名・1年生1名)、宿毛が選手3名(3年生2名・2年生1名)と3年生マネージャー2名のみ。ここに高知丸の内の選手4人(3年生1名・2年生2名・1年生1名)、高岡の1年生選手3名、幡多農が1年生、清水が2年生のそれぞれ1選手を加え、総勢選手16名・マネージャー2名で6月の休校期間明けに本格稼働したチームは「練習試合は自分の母校の伊野商と2試合、岡豊の1・2年生チームと1試合半しただけ、合同練習も1回くらいしかできていない」(連合チーム監督を務める高知丸の内・中山 裕文監督)にもかかわらず、現状できることを着実に得点・勝利へのベクトルにつなげていた。
投げては1年夏を終えてからは単独チームを組めない状況が続いていた宿毛の大黒柱・山下 周平(3年・172センチ69キロ・右投左打・宿毛市立小筑紫中出身)がサイドハンドからテンポよくアウトを重ね7回までは77球と理想的な球数で3失点。「最後は体力がなくなってしまった」と本人は涙ながらに悔やんだものの、これもできることを重ねた成果と言えるだろう。
打っても「三塁に進めても打って返せるメドがないので、常に無死二塁・一死三塁のパターンを作ることを考えていた」指揮官のビジョンを選手たちが体現。中でも失策・盗塁・犠打で三塁に進めた3番・山下を6番・冨田 悠靖(宿毛3年・一塁手・左投左打・169センチ108キロ・大月町立大月中出身)が一塁手の頭をワンバウンドで越える安打で還した6回裏と、2四球と暴投などで得た一死二・三塁から5番・渡邉 充貴(清水2年・捕手・167センチ70キロ・右投右打・土佐清水市立清水中出身)の3バントスクイズで奪った7回裏の同点劇は、見事の一語だった。
それだけに返す返すも悔やまれるのは3対4で迎えた8回裏。一死一・三塁での初球スクイズ失敗から三塁走者のタッチアウト。一塁走者の三塁封殺で終わってしまった逆転機会の喪失である。
中山監督はこのプレーについて選手個々のキャラクターを熟知した上で「あそこはスクイズをするなら初球しかないと思った。すべては監督の責任」と選手たちをかばったが、この場面まで3回裏・4回裏・8回裏。かつ4回裏・8回裏は三塁にランナーを置いた状態で7番・高津 結(高知丸の内1年・右翼手・163センチ53キロ・右投左打・南国市立野市中出身)に、フリーで二盗を許していた伊野商バッテリーの心理状況を鑑みれば、慌てず一死二・三塁の状態を作ってからじっくり攻めるのも一手だったのではないだろうか。
ただ、結果は受け入れなくてはいけないもの。大事なのは、この結果と過程を大人も子どもたちももう一度考え、異なる選択肢を持った状態を作って野球に限らず今後の人生で活かしていくこと。高校野球の終わりは人生の一区切りであると同時に、人生を過ごす上での大事な通過点であること。特に7人の3年生部員たちには、この悔しさを胸に刻み、幸多き次のステージをぜひ目指してもらいたい。
(文=寺下 友徳)