帝京高等学校 松本剛選手
第90回 帝京高等学校 松本剛選手2012年02月13日
走攻守3拍子を兼ね備えた帝京の松本剛。その高い資質を評価され、この秋のドラフトでは日本ハムファイターズから2位指名を受けた。
1年夏の選手権、そして2年春のセンバツと、それまで二度の甲子園を経験しながら、「自分たちの代でもう一度、甲子園に行きたかった」と、高校3年の夏は東東京大会で打率6割をマーク。常勝・帝京高校のキャプテンとして、また4番として大きな重圧を背負いながらも、そのすべてを力に変えて、最後は自らのバットで夢を叶えた。
「走塁と守備で勝負」
“自分は何をしたらチームに貢献できるか”
――まずは松本選手が帝京高校に入学を決めた理由を教えてください。
松本選手(以下「松本」) 帝京高校に入ったのは、高いレベルの学校で自分の力を試したいっていう強い思いがあったからです。1、2年生の時から、レベルの高い相手との練習試合や、大会にもレギュラーで出させてもらって、そういう中でプレーが出来たことが、自分の成長に大きくつながっていったのかなと思います。
――入学当時は、周りのレベルについていけず不安になった時はあったのでしょうか?
「松本」 1年生の頃は、バッティングだと、先輩たちにまだ勝てない部分がたくさんありました。その中で、自分は何をしたらチームに貢献できるかなと考えていき、自信のあった走塁と守備で勝負してきました。
結果が残せない焦り
“4番として自分が打たないと勝てない”
―1年夏の選手権、2年春のセンバツと、二度甲子園も経験するなど、順風満帆に進んでいるように感じる松本選手ですが、苦しんだ時期というのはあったのでしょうか?
「松本」 新チームになり、キャプテンになってからですね。今、振り返ると、高校3年間で一番苦しかったのはこの時期です。最上級生になって、やらなきゃいけないと分かってはいるんですが、思うように結果が出なくて。
――そんな時期もあったのですね。その焦った気持ちをどう切り替えていったのでしょうか?
「松本」 秋は東京都大会の初戦で負けて、チームの士気がそこで下がりました。当時は、後輩たちが多く試合に出ていたけど、1年生に色々言ったところで、思い切ってプレーできないなと感じていたので、僕ら2年生で、敢えてお互いに厳しく言うようにしました。「自ら動いていこうぜ」って。
その頃は毎日、チーム全体で話す時間をつくっていましたね。そのおかげで自分自身も、この年の冬が、練習に対しての意識を一番高く持てた時期でした。
――冬を越えて、シーズンを迎えた時は調子も上がっていたのでしょうか?
「松本」 2年生のこの冬に長打力もついて、練習試合が始まってから、ずっとバッティングの調子が良くて、とてもいい状態でシーズンを迎えられたんです。
だけど、春季大会3日前の練習試合で腿(もも)の肉離れで怪我をしてしまったんです。自分が中軸を打っていたのに、大会にも出られず、チームに迷惑をかけてしまいました。キャプテンとしてもチームに申し訳ないという気持ちでいっぱいでしたね。
――残念ながら、春の都大会で帝京は初戦の世田谷学園戦で0対6で敗れました。
「松本」 春の大会が終わって、その後の練習試合でもチームは勝てなくなりました。監督さんからは常に、「お前がやらなければいけないんだよ」と言われていたので、その言葉の重みを感じながら、「4番として自分が打たないと勝てない」「自分が何としてでも還す」そう自分自身でプレッシャーかけてやっていきました。
[page_break:自分たちの力で甲子園に行きたい]自分たちの力で甲子園に行きたい
“自分たちの代で、もう一度甲子園へ”
――1、2年生の頃と比べて、3年生では様々な苦悩がありました。それらを乗り越えて迎えた夏の東東京大会。どんな思いを持って挑んだのでしょうか?
「松本」 東東京大会では6割打ちたいという気持ちで挑みました。最低でも1試合2本打とうと決めていたのと、毎回、試合が終わると「今日はどうだったかな?」って振り返って、結果的に6割の打率を残すことが出来ました。
自分の中で記憶に残っているのは、やっぱり決勝戦で打ったホームランですね。最後の夏は、「今度は自分の力で甲子園に行きたい」という気持ちを持っていたゲームだったので、あそこで打ててよかったです。
――4番打者、さらにキャプテンとしての重圧は大きかったのではないですか?
「松本」 秋も春も、自分たちの代は悔しい思いしかしてなくて、その中で何とかして勝ちたいっていう気持ちがすごく強かったんです。自分も4番を任された以上は、「チームの中で一番打てて、一番点数を稼げるバッターじゃなくちゃいけない」っていうのを感じてきました。だから、他に頼らないで、自分で何とかしてやるっていうくらいの気持ちで、いつも試合では打席に入っていました。
――今、振り返ってみて、秋も春も満足いく結果が残せなかった中で、なぜ最後の夏は甲子園を掴みとることができたと思われますか?
「松本」 周りからは、「このチームは、夏は絶対に甲子園行けないだろう」って言われてたんですけど、そんな中でも行けたっていうことに誇りを持ちたいです。それも、みんなが協力して自ら動いたっていうのが一番の理由ですね。やっぱり、自分たちの代で、自分たちの力で行けたことが嬉しかったですね。
――そして、秋には日ハムから2位でドラフト指名されました。当時の率直な気持ちは?
「松本」 正直驚きの方が強かったです。まさか2位でいけると考えていなかったので。両親からは、「よく頑張った。でも、まだまだこれからだぞ」と言われながら、握手しました。
プロに入ったら、すべてにおいて、もう一回しっかり土台をつくっていきたいです。また、僕の好きな言葉である「自信と責任」の両方を持てば、いいプレーにつながるんだと高校で学んだので、そこはこれからも大切にして、今度はプロのレベルで3拍子揃った選手になりたいです。
(インタビュー:編集部)