第9回 株式会社エスプライド 西川世一さん2013年04月08日

 高校時代は名門・中京大中京高校でプレー。
現在は、総合クリエイティブカンパニーとして、商品や空間プロデュースをはじめ企業のブランド構築事業を展開する株式会社エスプライド代表取締役会長・西川世一さんをご紹介。
西川さんが高校野球から学んだこと。また、会社設立への熱い思いや、今後の夢など幅広く語っていただきました。

目次

【目次】
[1]憧れの中京大中京へ! 大藤先生の出会い
[2]新しいモノを生み出し、新しく活躍する場所を生み出したい [3]社会に出て実感。考えられて行動出来る選手になろう

憧れの中京大中京へ! 大藤先生の出会い

中京大中京時代の西川さん

――現在、ブランディング事業をメインとした株式会社エスプライドの代表取締役会長としてご活躍されている西川さんですが、高校時代も強豪校のレギュラーとして白球を追いかけていました。まずは、少年時代の思い出を教えてください。

西川世一さん(以下「西川」)  小学校の時からプロへ行きたい気持ちと中京大中京高校に対する憧れが、かなりありました。中学は硬式野球クラブに所属していて、投手と外野を兼任していました。
ただ、中京大中京は、勉強も出来なければ入学することが出来なかったので、当時から勉強が苦手だった僕にとっては、入るまでに苦労もしましたね。

――中京大中京高校では、大藤敏行先生と出会いました。西川さんにとってどんな先生だったのでしょうか?

西川 とても厳しい先生でしたね。ただ、入学してすぐに、大藤先生に評価していただいた部分もあったのに、怪我をしてしまったんです。
また、僕は当時はやんちゃだったので、何度も監督に怒られていて、その時は監督の厳しさに対する有り難みを感じることが出来なかった。でも、今になって振り返ると監督の教えはすべて、僕の今の人間形成の基礎となっていたんだなと気付きました。

――中京大中京高校で過ごした3年間はいかがでしたか?

西川  先輩はもちろんですが、周りのレベルが本当に高くて、場違いなところへ来たと最初は思いました。
ただ、僕は打撃をウリにして、入部してすぐにサードに転向して試合に出場する機会もあったのですが、腰を怪我してしまって、なかなかグラウンドに立つことができなかったんです。それからは治療とリハビリの毎日で、復帰した後は、遅れを取り戻そうと必死に練習して新チームになってからはレフトで出場することが出来ました。

――最後の夏の試合は、今でも覚えていますか?

西川  覚えていますよ。最後は県大会の準決勝で敗れました。その年は、享栄や愛工大名電といった強豪が早々と負けてしまった。僕たちのチームはいい選手も多くて、甲子園に行けると思っていたんですけど、そういう油断があったんでしょうね。準決勝では先攻しながらも、エラー絡みで大量失点をしてしまった。そこから取り返そうと反撃したんですけど、結局、7対4で負けました。

――高校を卒業後は、どのような道を歩んで生かれるのでしょうか?

西川  大学に進学したのですが、腰に爆弾を抱えていたのもありましたし、野球選手として活躍するのはもう無理かなと。父が経営者だったので、自分も経営者になりたいという夢もあった。そこから、大学を辞め、上京し、経理学校へ通い始め、翌年はデザインの学校に通いました。父の仕事は紙器製造会社で、簡単にいえばダンボールや包装資材を扱っている会社ですね。そこで仕事をしつつ、何か紙器製造でも、デザイン性を持たせることが出来ればと自分なりに考えるようになりました。それで、デザインの知識を身に付けたいと思ってデザインの学校に通ったんです。

PHOTO GALLERY フォトギャラリー

写真をクリックすると拡大写真がご覧になれます。