Interview

東北福祉大学 伊藤 直輝選手

2010.08.09

第54回 東北福祉大学 伊藤 直輝選手2010年08月10日


東北福祉大学 伊藤 直輝選手 | 高校野球ドットコム

第92回甲子園大会記念企画!!~甲子園を沸かせたヒーロー達~
第54回は、東北福祉大学 伊藤直輝選手です。

 当たり前だけど、野球は、最低でも9人が必要だ。一人の力だけで勝ち上がるのは難しい。
 1年前の夏。新潟県を制し、甲子園に乗り込むまでは、49地区代表の1校にすぎなかった日本文理。それが、日を追うごとに、「え?新潟が?」と高校野球史を揺るがす快進撃を続けた。
 甲子園の決勝に進んだだけでも快挙とされたチームが、その決勝戦でまた、ドラマチックな試合を創り出した。
中京大中京との決勝戦。6点を追う9回表に1点差まで詰め寄る、驚異的な粘りを見せたが、勝利まではあと2点足りなかった。それでも、たくさんの人々の心を震わせた1戦だったはずだ。
新潟の高校野球史を変えたチームのエースの素顔に迫る。


伊藤直輝

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 1年前、ほんの2週間程度で伊藤直輝は一躍、時の人となった。甲子園という高校野球最高の舞台で初戦の2回戦から全5試合をたった1人で投げ抜いた日本文理のエース。チームに夏の甲子園初勝利をもたらし、新潟の高校野球の歴史を一気に分厚くさせ、日本の高校野球史を動かした。

 1991年4月16日、4人兄弟の3番目、伊藤家の次男として生まれた。伊藤を育んだ関川村は、山形県小国町と隣接し、人口は6500人ほどの村。「毎日、木登りしていました。遊んでいましたね、とにかく。何でもやっていました。自然しかないです」。

 3歳から通った保育園ではいたずらばかり。「お昼寝タイムとかあるじゃないですか。それ終わったらおやつだったんです。(おやつが)食堂の棚みたいなところに置いてあったんですけど、待ちきれなくて、先生の目を盗んで机の下で食べているのをみつかって怒られていたの、覚えています」。

この頃から野球への興味も芽生えた。「おやじが野球をやっていたっていうのもあって、ボールを触ったり、キャッチボールしたり。ボールを触るのが好きで、プロ野球もテレビで見ていました。そういうので野球をやりたいっていうのが自分の中にあって」。

 本格的に野球を始めたのは、関小学校2年生の冬。3年生から入れるが、ちょっと早く、チームに入れてもらった。村内にある安角、関、女川、川北、土沢の各小学校からメンバーを募った関川スポーツ少年団がそれだ。

最初のポジションはキャッチャー。「阿部慎(巨人・阿部慎之助)が好きで、キャッチャーにあこがれていました」。新潟で放映されるプロ野球中継は、当然のように巨人戦。「プロテクターがかっこよくて。付けてみたくて」希望したキャッチャー。だが、小学3年生の小さな体には負担だった。「楽しかったですけど・・・」。いくら少年野球用とはいえ、レガースは太ももまで隠れるし、重量もある。ちゃんとキャッチャーミットも使用したが、やはり大きかった。3年生はサードなど、いろんなポジションを守った。その秋、ピッチャーを始めることになる。本格的には4年生からで、そこから投手人生がスタートした。

 少年野球の練習はノックをして、バッティングをしてといったいたってシンプルなものだった。「ランニングしてこい」と言われれば、練習場の河川敷内を走った。さらに「家に帰っても走っていました。元々走るのが好きで」。この頃にランニングをし過ぎたのか、「今は好きじゃないんですけど」と笑う。

 どんな投手だったのだろうか。「スピードはなかったけど、コントロールが良かったです。思ったところ、キャッチャーが構えたところに投げられていました。今より、小学校の時の方が良かったかも(笑)指先が起用だったんです」。

勉強の方は?「普通でした、普通。かけ算、わかんないとかなかったです。ちゃんと、そういうのもわかっていました!(笑)」。

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 関谷中では、軟式野球部に所属。1年生からエースナンバーを背負った。もちろん、入学してすぐではなく、3年生が引退した後。理由は「15人くらいの部員で、上にピッチャーがいなかったから」。県大会出場もままならない状況で強くはなかった。だが、2年生になる時、関谷中は関川村にあるもう1つの女川中と統合し、関川中になった。女川中には野球部がなかったという。学区の関係で女川中に進んでいた小学校時代の仲間は、関谷中と統合したことで、1年越しで野球をすることになった。

3年生の県総体では準優勝。北信越大会に進んだ。1回戦で敗れ、全中出場はなかったが、「周りのやつらがよかった。チームメートっていうか。上手いやつらだったんで。ほんとに、よかったです。チームメートが」。仲間に恵まれ、充実した中学野球だった。

 学校では中心だった。「小学校6年くらいからリーダーシップ性を・・・リーダー的な存在になってきて、中学校では体育祭の団長とか、そういうのやっていましたね。けっこう、まとめる的な役でした」。小学校、中学校とキャプテン。「なので、あまりふざけた感じじゃなかったです。しっかり、真面目にやっていました」。

 勉強は?「小学校の時と変わらず。数学とかもう、ダメでしたね。英語は週1回、塾に通っていたので、最初は90点とか取っていたんでスタートはよかったんですけどね。後半はわかんなくなっていました…」。

「強い高校に行きたい」と、漠然に思っていた頃、下越大会の2回戦に日本文理の大井道夫監督が見に来ていた。誘いが一番早く、この頃の日本文理は甲子園の常連になりつつあった。2006年センバツではベスト8入り。新潟で最も脂が乗っているチームだった。

 


日本文理 【高校時代】

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2007年春、日本文理に入学する。

「寮生活はちょっと慣れないところもあったんですけど、親元を離れるのは苦じゃなかったです。練習にも慣れて、いい環境にいたと思っています」。

ピッチャーは基本的に自らメニューを立てて行う自主練習。すべては自分にかかっていた。「バッティングのチームというのもあって、バッティングがメインなんです。ピッチャーは各自で走ったり、ピッチングしたかったらピッチングしたり、ノックある時はノックに入ったりということで、自由な感じで。「バッティングやれ」って言われたらバッティングやったりとか。強制的なメニューはなかったです。先輩と仲が良かったというのもあって、先輩と一緒にやっていました。ポール間走ったり・・・・・・そんな、特別なことはないんですよねぇ。走ったり、インナーやったり、ウエイト、ウエイトはあんまりやっていなかったですね。チームとしてはやっていたんですけど、ピッチャーはあまりやっていなかったですね。下半身はやっていたんですけど、上半身は全くやっていませんでしたし。投げ込みは、3日連続投げて2日休むとか。春、夏の大会前は投げ込み期間があるので、150球を3日間とかありました。あとは、自らバッティングピッチャーやったり。それで実践的なものを補っていました」。

2007年夏、新潟大会準決勝で敗れ、“自分たちの代”になった。「自分たちで言い合っていました。授業はしっかり受けて、態度をちゃんとしようとか。先生に嫌われないようにしよう、応援されるように、って。寝たり、私語して怒られたりしないように。野球部全体として見られるので。そういうのは良くないということで、言い合っていました。そういうのを言い合えたっていうのも大きいですよ。ゴミが落ちていたら拾って捨てるとか、まぁ、当たり前のことなんですけど、ゴミ拾いとか常にやっていましたよ。地域清掃もやっていましたし」。

以前はほとんど行われていなかったそうだが、自分たちの代になって、日常生活に力を入れるようになった。その結果はすぐに表れる。秋の県大会を優勝で飾り、北信越大会を 2年ぶりに制した。

そして、2009年春、センバツで初めて甲子園のマウンドに立った。しかし、全国は甘くない。1回戦で清峰に0-4で敗戦。清峰はそのまま勝ち進み、初優勝を果たした。

清峰が歓喜に沸いて頃、日本文理はすでに夏に向かっていた。

新潟県大会を順当に勝ち上がり、夏の切符をつかむ。
甲子園では2回戦からの登場で、初戦は藤井学園寒川(香川)に4-3で逆転勝ち。日本文理として夏の初勝利を挙げた。3回戦の日本航空石川戦(石川)では12-5の圧勝。準々決勝・立正大淞南戦(島根)も猛打爆発で11-3。準決勝は県岐阜商(岐阜)。2-0でリードした9回表に1点を返されるも、逃げ切った。気付けば、決勝。

高校野球史に残る、大熱戦を繰り広げたが9-10で準優勝に終わった。それでも、新潟県勢初の決勝進出は、敗れても温かな拍手が送られた。

伊藤は、この甲子園で5試合すべてを1人で投げ抜いた。この完投した原動力は何だったのだろうか?

「わっかんないですね。でも、甲子園入ってから、やることやっていたと思います。夏って、食欲がわかなくて食べられないじゃないですか。とりあえず、しっかり食べていました。それは自分だけじゃなくて。みんな、食事の時間は結構取っていました。あと、野菜を食べられないというか、あんまり食べたくないっていうか。そういうのもあったので、野菜ジュースをホテルの部屋の冷蔵庫に10本くらい入れていたり。黒烏龍茶も入っていましたよ。黒烏龍茶、5本くらい。ホテルの食事って、脂っこいのが多いじゃないですか。それも身体的に、次の日に影響するので。そういう食事の面とか気にしていたので、黒烏龍茶はいいかなと思って」

自己管理。練習が個人に任せられているためか、こういう局面でも自律が見られる。誰かに言われたのではない。

「自分でやりました」。何が自分に合っているのか、どうすれば、いいコンディションを作ることができるのか。
大会期間中は外出禁止だったこともあり、野菜ジュースも黒烏龍茶も頼んで買ってきてもらった。

「自分たち、外出がダメで。早稲田で学生コーチをやっている先輩が手伝いに来てくれていたんですが、その人と仲がよかったので、頼んで。それ以外はマネージャーとかに頼んで。外出、しようとも思わなかったですけどね、疲れて」。

一緒に東北福祉大に進学した吉田はこう証言する。

「あいつはそういうのすごかったです。自己管理はさすがだなって思います。あいつ、クーラーも絶対に付けないんですよ。すごいですよ、あんなあっつい中。あいつの部屋、ガチャって開けて入ると、モワモワしていて、そんな中、あいつは上半身裸で「ん?どうしたん?」って感じで出てきました(笑)自分もさすがに寝る前は消しますけど。インフルエンザも流行っていたので外に出られなくて、ずっとホテル待機とかだったので、よくあいつ、あれでいられたなと思うくらい。意識が高くて、食事も自ら監督とかに言って、ホテルの人に頼んで。こういうの出さなくていいとか、こういうの出してほしいとか。とにかくすごいですね」

食事の他、ケアや分析も、もちろん怠らなかった。

もう1つ、全試合を投げられた要因があるという。

「くじ運もよかったと思います」。

くじ運――。対戦相手というわけではない。
「準々決勝が終わって、1日空いて決勝だったんですよ。そういうのもあったので。県岐阜商は帝京やって連続で準決勝だったんですけど、自分たち、立正大淞南とやって、1日空いて県岐阜商だったんです。体の疲れとかも違いましたね。帝京相手に投げて、連投っていうのはきついですよ。県岐阜商は勝ったら3連投でしたもん。なので、そういうのもあったと思いますよ」。

1日空いた日は、11時半から約2時間の練習を行った。午後からは試合のビデオで相手の分析。体もしっかり休ませた。

 それが、準決勝を接戦で突破でき、決勝も投げ抜くことができた理由だという。

 決勝では147球の熱投も、最後に、負けた。

 新潟に帰ると、街は甲子園準優勝に沸いていた。「行く前と後では見られる目が変わりました」。その分、はっちゃけることはできず、「しっかり生活していた」という。9月末には地元・新潟国体があったため、練習も積んだ。国体後は後輩の練習に混ざり、大学に向けた練習。その一方で後輩には自分の持っているものを教えた。


東北福祉大学 【大学時代】

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 2010年4月、東北福祉大に入学する。すでに2月からチームに合流し、3月の沖縄・浦添キャンプ、国内遠征もすべて帯同した。即戦力としての期待というよりも、経験を積む意味があったのだろう、登板機会も与えられ、大学野球を体感した。そもそも、東北福祉大は自身の頭の中にある進学先リストには「かすかに」入っている程度だったという。「だいたい、東北行きたくなかったんですよ、寒いから」。人生、何があるか分からない。いろんなご縁が巡って、今、仙台の地で高みを目指している。

 春季リーグ戦は中盤までベンチ入りしていたが、デビューはなかった。終盤の2節はスタンドで応援。季節は春だというのに、ちょっと肌寒かった日。応援用の半袖のポロシャツを着た伊藤は寒さに耐えながら「新人戦は投げたいです」とつぶやいた。

リーグ戦終了後に行われた新人戦の決勝・東北学院大戦に2番手として大学公式戦初登板を果たす。1-0で1点リードの5回、2死3塁、一打同点の緊迫した場面だったが、カウント1-1からライト前に同点打を打たれた。先発は2年生。先輩の白星を消してしまった。

だけど、まだ、同点。チームが勝つために、勝ち越しだけは許しちゃいけない。6回にも3塁に走者を背負うピンチがあったが、7回以降は三者凡退で切り抜けた。そして、チームはサヨナラ勝ち。勝利投手は伊藤。ラッキーボーイぶりを発揮して、大学公式戦初勝利を挙げた。しかし、先輩の白星を消したことの方が気になった様子。ほろ苦い、スタートになった。

6月の大学選手権は、メンバー漏れしたが、チームに帯同。試合中はボールボーイとしてがんばった。大学の全国大会はボールボーイでの“デビュー”。日本文理で5番を打ち、甲子園では6割3分6厘の打率を残した東海大の高橋義人もボールボーイをしていた。「あいつもボールボーイしていましたね。ボールボーイ、よく映っていた、テレビに(笑)自分と一緒で。同じ立場だぁ」。

1年春のリーグ戦と初めての大学選手権を終え、大学の前期試験も終了。今は秋に向けて、真っ黒に日焼けしながら練習に励んでいる。

「目標は全国大会でのベンチ入りです。リーグ戦もベンチに入って、結果を残さないと全国大会のベンチ入りもない。リーグ戦でチームに貢献できる選手になって、秋の全国舞台で投げたいです」。
東北福祉大には、1年春の大学選手権のベンチ入りを逃すも、秋の明治神宮大会で全国デビューし、3年生ながら主戦となった先輩投手がいる。彼だけではなく、学べる先輩は多くいる。同級生も、実力に申し分の無いライバルばかりだ。

日本文理のベースボールTシャツに刻まれている文字。「能力の差は小さいが 努力の差は大きい」。これには「継続の差はもっと大きい」という言葉が続く。

「甲子園準優勝投手」の看板は一生背負っていくもの。高校野球からワンランクアップした大学野球で、高校時代を越えるキャリアを築くには――。答えが見えた時、大学野球の聖地・神宮球場のマウンドは、伊藤の野球歴を再び、大きく揺るがす山となるはずだ。


道具へのこだわり【グラブ】

小さめの方がいい。今使っている、大学に入ってからのグローブはちょっと大きいです。
グローブがでかいと、フィールディングでボールの出し入れがしずらい。フィールディングにかけています、先の塁に進めたくないので。
フィールディングが大事だと思っています。

球児へのメッセージ

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今、甲子園で頑張っている球児へ
「3年生にとっては最後の晴れ舞台。悔いを残さずに終われるのは勝った者だけなので、是非、1試合でも多く戦えるように頑張ってください。また、予選で何校も負けて終わっている人たちがいる中、甲子園で戦えることに誇りを感じながら精一杯、頑張ってほしいです」

新チームとしてスタートした球児へ
「新チームが始まったばかりですが、高い目標をもってやっていけば、甲子園という場所が近くなっていくと思います。甲子園で戦うことができるように、日々の練習を大切にしてほしいです」

(文・インタビュー:高橋 昌江)

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■特別企画
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この記事の執筆者: 高校野球ドットコム編集部

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