4スタンス理論、大阪桐蔭との練習試合…世代屈指の強打者・蛭間拓哉の礎を築いた浦和学院時代【前編】
2022年の大学生を代表するスラッガーといえば、早稲田大・蛭間拓哉外野手だろう。浦和学院時代は3年夏に甲子園ベスト8を経験し、U-18代表にも選出された。東京六大学通算10本塁打は現役生トップで、昨年12月に行われた大学日本代表候補合宿でもトップの5安打をマークした。世代屈指の強打者である蛭間の足跡をたどる独占インタビュー。まずは高校時代までの軌跡を振り返る。
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■前編
4スタンス理論、大阪桐蔭との練習試合…世代屈指の強打者・蛭間拓哉の礎を築いた浦和学院時代
合格して気づいたライオンズジュニアの経験
高校時代の蛭間 拓哉(浦和学院出身)
群馬県桐生市出身の蛭間は小学校6年生の時に「埼玉西武ライオンズジュニア」に応募した。桐生市出身の蛭間がなぜ参加できるの?と思うかもしれないが、実はライオンズジュニアは居住地域の制限はない。合格できるだけの実力があり、埼玉県外からでも、ジュニア代表の練習、試合に通うだけの根気があれば、参加は可能。それでも、桐生市から埼玉までの遠征は結構ハードルが高く、蛭間や関係者の熱意が大きかったことがある。
蛭間は合格するまでNPBジュニアの試験だったことは知らされていなかった。
「群馬県で少年野球のお偉いさんに言われて受けました。そもそも、そのセレクションもジュニアトーナメントを知らない状態だったんです。受かってからジュニアトーナメントの応募ということを知りました。僕自身、人生で桐生市から出たのが初めてですし、群馬からライオンズジュニア(入団)が初めてでした」
大きな経験となった。試合会場は札幌ドーム。NPBの会場でプレーできたことは思い出だ。
「西武のユニフォームを着させていただいて、プロがやる球場でも、できたので楽しかったです」
中学は前橋桜ボーイズでプレーした。群馬を代表する中学硬式チームだが、とても厳しいチームだった。
「浦和学院もかなり厳しいチームでしたけど、中学時代のチームもそれに匹敵する厳しいチームでした。その環境でかなり鍛えられましたし、成長することができました」
中学時代は投手として活躍したが、浦和学院関係者からは打者として高く評価されことがきっかけで入学を決めた。
当時、浦和学院は21年夏で勇退した森士監督が率いていた。蛭間は「監督さんからは人として大事なことを多く学ばさせていただきました」と振り返る。
蛭間は律儀に挨拶をする選手で、1つ1つの行動のソツのなさは、浦和学院で学んできた選手だと実感する。それ以上に、これほど大打者でありながら、朗らかな人柄、チームに溶け込むために「脇役」に徹し、チームメイトを立てることができる。これは蛭間の人徳なのかなと思う。頼りがいのキャラクターである蛭間は1年生から主力選手として活躍。最終学年には主将となった。
[page_break:大阪桐蔭戦で強くなった全国制覇への思い]大阪桐蔭戦で強くなった全国制覇への思い
早稲田大 蛭間 拓哉(浦和学院出身)
目標はもちろん全国制覇。その思いを強くしたのが3年春先に行われた大阪桐蔭との練習試合だった。試合は1勝1敗。当時、蛭間は怪我をしていたため、スコアラーとして試合を見ていたが、大きな気づきを得た。
「自分たちも(高校生)最後の100回大会を優勝するためにずっとやってきた中で、大阪桐蔭を倒さなきゃ優勝できないというのは2年冬から言ってきた。その言葉にみんなも応えてくれて、練習を取り組んできていました。大阪桐蔭と練習試合できることで、みんな気持ちが舞い上がっていました。前日に履正社と練習試合やって、その前までチームとしてまとまってなかったのですが、履正社とやる前にチームが一つになった。結果は1点差で負けたんですけど、そこでチームが一つになって『これ明日、大阪桐蔭いけるんじゃないかな』という気持ちになって、一つになった感じがあって勝てました」
そして大阪桐蔭と戦ったことが強くなった要因と語る。
「大阪桐蔭は常に頭にあって、ここを倒さなきゃ絶対に甲子園優勝はないと思っていて、チームがあったからこそ自分たちの代は強くなれたと思います」
同時に蛭間は大きくパワーアップを遂げていた。当時、浦和学院は18年の冬頃に新しいトレーナーが赴任し、そのトレーナーは「4スタンス理論」を指導できる人だった。これはU-18代表に選ばれ、アジア選手権の強化合宿中の取材で詳しく話してくれた。
蛭間は「B1タイプ」。MLBパイレーツの筒香 嘉智外野手(横浜高出身)、巨人・坂本勇人内野手(光星学院出身)と同じタイプである。このことにより重心のかけかたが変わったのだ。
「自分の場合、指導されるまで体の中心に力をかけていたのですが、指導を受けてから左足の踵からかけるようになりました。軸足からかけるようになって変わったんです」
結果として、打球速度もかなり速くなり、大きくパワーアップ。走攻守三拍子揃った世代屈指の外野手へ成長した。専門家の指導を受けて、パワーアップに成功した体験は後に早稲田大時代の成長の礎となっていく。
南埼玉大会を制して、甲子園でもベスト8。準々決勝の相手は春に練習試合で対戦した大阪桐蔭だった。結果は「経験の違い」が出たと振り返るように2対11で大敗。最後の夏が終わった。U-18代表にも選出されたが、結果は残せなかった。
大阪桐蔭との大敗。U-18での不発。夏まで高卒プロを考えていた蛭間は大学進学を決断する。
「最後の夏までは意識していた部分はありました。まだまだだなと感じましたし、そこで日本代表でも打てなかったので、そこで自信が持てませんでした。高卒でプロにいくには、自信がない状態で(プロ志望届を)出しても意味がないと思ったので、自信を持って出せるように4年間やりたいと思ったので、高校では出さず進学を決断しました」
そして東京六大学・早稲田大へ進学。蛭間は挫折を味わいながらリーグ屈指の強打者へ成長することとなる。
(記事:河嶋 宗一)