家族の支えから独り立ち、国士舘・清水武蔵は基礎を作ってプロ注目打者へ【前編】
運命のドラフト会議がまもなくと迫ってきた。プロ志望届を提出したすべての選手が思い思いに吉報を待っている。西東京の名門・国士舘の強打者として活躍した清水 武蔵もその中の1人である。
高校通算22本塁打という長打力と、逆方向にも長打を打てるスラッガーとして1年生夏からベンチ入り。2020年甲子園交流試合にも出場し、プロからの調査書や入団テストなども呼ばれるほどの実力の持ち主だ。
そんな清水の打撃は、小学3年生から始まった野球人生のなかで、積み重ねてきた努力の結晶だった。
父との二人三脚で打撃土台を作る
清水武蔵(国士舘)
鹿児島県で中学3年生まで過ごした清水は、幼いころから野球に触れあいながら成長してきた。
「家族で野球をやっていたのは、少年野球チームでコーチを務めていた父だけでしたが、小さいころからいろんな人とキャッチボールするくらい野球が大好きでした」
そんな父の勧めで、硬式野球チーム・薩摩南州ボーイズで小学3年生から野球人生を始める。「4年生になれば試合に出られるだろうし、硬式野球の方が楽しいはずだ」と当時は思って練習に打ち込む。実際に4年生に進級すると、試合に出場するようになり、思い描いていた通りになっていた。
ただ、清水は我慢していることが1つだけあった。父から言われた「逆方向に打て」という一言だ。
「逆方向に打てる右打者は貴重だ、ということで父から言われてきました。
当時の自分は幼かったので、『自由に打ちたい。引っ張ってホームランを打ちたい』と思っていました。けど父からそういわれてきたので、少しだけ我慢しながらやっていました」
最終的に逆打ちのコツは掴み、「今のバッティングの土台になっています」と清水の打撃の根幹の技術となっているとのこと。そこに至るまでは、地道な練習の積み重ねがあってのものだった。
「父が仕事から帰ってきて、時間があるときに30分くらいシャトル打ちをやっていました。
ただ、普通にやるのではなくて、自分は父に対して正対して立った状態で、シャトルを投げてもらうんです。そうすると、バットを内側から出さないとシャトルを打ち返すことができません。それでバットの出し方を覚えたおかげで、逆方向へのバッティングのコツを覚えることができました」
打撃の土台部分ができあがった清水は、中学でも桜島ボーイズで硬式を継続しても、「打撃は通じる部分がありました」と壁を感じることはそれほどなかった。それもひとえに「父とシャトル打ちをやってきたことが大きいですね」と積み重ねてきた努力のおかげだと振り返る。
プロになるために鹿児島から東京へ
清水武蔵(国士舘)
その後、清水は高校へ進学するタイミングで、地元を飛び出し、西東京の名門・国士舘の門を叩くことになる。早くから国士舘に声をかけられていたことも関係しているが、清水のなかでも明確な目的意識があった。
「元々、小学生の時から県外志向が少しあって、中学生になって進路を考える時に、関東でやりたいと思ったんです。そっちに行けば、プロのスカウトの目に留まりやすいと考えていましたが、そこで永田監督に声をかけてもらって決めました」
プロの世界に行くために上京して寮生活を始めるも、最初は「食事はおいしいんですけど、醬油の味が薄いことには驚きました」と少し笑顔で文化の違いを語ると、続けて寮生活について話す。
「全体練習が20時ごろまでやった後に、食事と自主練習があって、終わるのが22時ごろでした。それからお風呂と洗濯をすると寝るのは深夜12時頃です。
起床時間は5時45分と決まっていたので、毎日の練習の疲労もあって眠くて大変でした。なので、親のありがたさも改めて感じました」
身の回りのことを自分1人でやることに苦戦したが、野球は寮生活ほど苦労することなく、順調にステップしていく。
「最初はタイミングを合わせられないこともありました。それでも、逆打ちができるおかげで何とかヒットは出ていましたし、試合に出続けたことで、タイミングは段々合うようになりました」
永田監督も、「右方向に打てといえば、それができる選手です」と清水の打撃技術には、高い評価をしている。
その打撃を武器に1年生の夏にベンチ入りを掴む。「技術手には足りない部分もあると思っていたので、驚きました」と思いもよらぬことだったが、秋になるとレギュラーへ定着。中軸を任されるまで成長し、チームの秋季大会連覇に貢献。新型コロナウイルスの影響で、選抜、夏の甲子園は無くなったが、甲子園交流試合への出場が決まった。
晴れて甲子園デビューを果たすと、4打数1安打と結果を残し、チームも4対3で磐城に勝利。全国の舞台を経験することができた。この夏のことを、清水は充実した表情で振り返る。
「甲子園は初めてでしたが、本当に球場が広い。そして芝やフェンス、観客席まで緑一色で綺麗だったので、気持ちよかったです」
だからこそ、「(仲間たちを)甲子園に連れていきたい」と強く心に近い、新チームを引っ張った。だが、その思いが清水に重くのしかかり、「不調になってしまいました」と空回りしていく。
(記事:田中 裕毅)