石川翔に続くプロ野球選手に!最速142キロ右腕・佐々木康が積み重ねてきた土台とプロ入りへの想い
4番の石川慧亮をはじめタレントが揃う昨秋の栃木県王者・青藍泰斗。関東大会では西武台に敗れたが、今夏の独自大会では注目される実力校だ。その青藍泰斗で2年生からエースを背負い、チームを牽引してきたのが佐々木康投手だ。
最速142キロを計測する直球を武器にスライダーやカットボール。さらにカーブやチェンジアップと多彩な変化球を使って打者を翻弄。タレント集団の青藍泰斗でエースとして活躍する佐々木だが、背番号1を付けるまでにはどのような道のりがあったのか。そのプロセスに迫る。
先輩・石川翔の背中を追いかけて青藍泰斗へ
投球練習をする佐々木康(青藍泰斗)
佐々木が野球を始めたのは小学1年生から。選手として国士舘大学でプレーしていた父の影響で野球の世界に飛び込んだ。佐々木は東京都大田区に拠点を置く安方フェニックスに入団し、外野手として活躍。そして中学では、硬式の大田水門ボーイズへ入団することを決意した。
1つ上の先輩には木更津総合で甲子園を経験した太田翔梧(現日本大)。さらに太田と同じく関東一時代に甲子園を経験した村岡拓海(現国士舘大)が先輩にいる厳しい環境。「周りよりも身体はかなり大きかった」と佐々木は振り返るが、入団してしばらくは外野手としてプレーしていた。
そして中学2年生からピッチャーへ挑戦する。当時のことについて「最速は135キロくらい出て、周りの人よりも少し速いかなという感じでした」と語る。そんな佐々木は中学時代は東京都ベスト4が最高成績で、全国の舞台は経験できなかった。
「今は同じチームの石川慧亮のいた志村ボーイズに予選であたって負けました。石川は中学時代から凄かったですが、悔しさの方が大きかったです」
その後、佐々木は青藍泰斗へ進学することとなるが、きっかけは石川慧亮の兄で、現在プロで奮闘する兄・翔の存在が関係していた。
「ちょうど石川投手がプロ入りされて憧れがありました。『高校で目立つことが出来ればプロに行ける』というイメージがありましたので、石川投手がプロに行かれたことで、『自分も頑張ればチャンスがあるのかな』と思いました」
また太田水門ボーイズのコーチから「(青藍泰斗は)野球をやる環境が整っていていいよ」と話を聞いていた佐々木。それを聞き、「3年間しっかり野球に向き合える」と感じた石川は青藍泰斗へ進んだ。
[page_break:あえて突っ張ることでピッチャーとして一皮向けた]あえて突っ張ることでピッチャーとして一皮向けた
佐々木康(青藍泰斗)
青藍泰斗はトレーニングに力を入れる指導が特徴的なチーム。主砲・石川も入学後にホームランを打つ体力を身につけたとのことだった。佐々木も青藍泰斗で走り込みに打ち込んだことで、下半身が強くなった。それがピッチングの向上に繋がった。
「グラウンドの周りが400メートルありますので、6周1セット。大体2、3キロくらいで時間制限を作って走る。それから短距離やポール間など全部に時間制限を付けて走って下半身が強くなったことを実感しました」
佐々木の中では中学時代から下半身の弱さを課題に感じていた。またピッチングの中で、下半身で踏ん張ることが出来ず突っ込んで投げることが多いことも、佐々木の中では克服すべき課題だった。しかし、青藍泰斗で練習を重ねていく中で下半身の強さが身につき、課題は改善されつつあった。
そして、佐々木の中で突っ張って投げる意識を持ち始めたことも成長に大きくつながった。
「中学の時から踏み出す左足を突っ張らせて、突っ込むことはおさえようとしてきました。それが高校に入ってより意識するようになったことで、指先にボールがきっちりかかるようになってコントロールが良くなったと感じています」
一般的には突っ張って投げることはあまり良くないとされている。佐々木も試した当初は、「全然結果が出なくて続けるか迷う時もあった」と悩んだ。しかし諦めることなくやり続けたことで、現在の結果を掴むことが出来たとのことだ。
文=田中 裕毅
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