2016年甲子園優勝メンバー・入江大生(作新学院出身)を変えた3年春の県大会
10年連続ドラフト指名を受けている明治大。昨年は広島東洋1位・森下暢仁(大分商出身)、横浜DeNA3位・伊勢大夢(九州学院出身)が指名を受け、即戦力として期待をかけられている。そして今年、この2人に続くのが入江大生(作新学院出身)だ。
作新学院時代、今井達也(現・埼玉西武)らとともに全国制覇を経験。夏の甲子園では今も破られない3試合連続ホームランの活躍が評価され、U18にも選出。アジア選手権制覇に貢献した。明治大では150キロ近い速球を投げる本格派右腕として26試合に登板して防御率2.97を記録。中止となってしまったが、大学代表候補にも挙がった。そんな入江の高校時代を振り返る。
甲子園に最も近い強豪として作新学院に進んだ
入江大生(明治大)
入江が野球を始めたのは小学3年生。軟式野球の今市レイダースで投手を始めたことで、野球人生が始まった。
「自分の家族では誰も野球をやっていなかったのですが、当時通っていた学童保育の隣で野球をやっていて。そこでたまに転がってくるボールを投げ返していたら、『野球をやってみたら』と声をかけてもらったのがきっかけでした」
投手としてはコントロールがまだ甘く、ストライクを取りに行ったところを打たれる。入江自身も「ほぼ毎日打たれていた」と小学生の時から好投手というわけではなかった。それでも、抑えた時の楽しさを胸に中学でも投手を継続していった。
そして中学では硬式のチーム・県央宇都宮ボーイズに入団したが、甲子園に行きたい思いがあったようだ。
「甲子園の選手名鑑を見ていると出身にボーイズの名前が多くて。自分はどうしても甲子園に行きたかったので、その近道はボーイズに入ることだと思って決めました」
3年生の夏には第44回日本少年野球選手権大会に出場してベスト8。準々決勝で京葉ボーイズに敗れたが、全国で大きな実績を残した入江。当時はストレートとスライダーの2つを使って打者を翻弄する投手だったが、当時の練習をこう振り返る。
「ひたすら走っていた記憶があります。1試合目に登板すると2試合目には出ないので、その時間に坂道ダッシュにポール間。あとは手押し車もしましたが、多分基礎体力や筋力が不足していたので、それを鍛えました。きつい練習でしたので、同時にメンタルが鍛えられました」
その後、地元・栃木で、最も甲子園に近いと考えていた作新学院へ進学。希望を出して寮にも入り、本格的に高校野球を飛び込んでいった。全国8強入りの実績を持っていた入江だったが、チームの雰囲気はすさまじいものだった。
吐き気を感じるほどの作新学院の練習の雰囲気
入江大生(明治大)
「最初の1、2か月はランニングやフィジカルトレーニングだったのですが、初めてグラウンドに入ったときは張り詰めた緊張感に吐き気を感じて(笑)特に夏の大会前なんかは戦場みたいなピリピリした雰囲気でした」
実際に入江が本格的にベンチ入りを果たしたのは1年生の秋から。部員数は100名を超える大所帯である作新学院内で入江がアピールしたのは声だった。
「とにかく印象付けようと思ったんです。プレーよりも声で覚えてもらうと思ったんです」
それでチャンスを掴んだ入江は対外試合を経験していき、公式戦にも1年生の秋から登板をすることができた。そして2年生の夏には「作新学院の黄色いスタンドしか覚えていない」と振り返るが、甲子園では九州国際大附戦に登板し、今井よりも先に甲子園デビュー。着実に経験値を重ねてきた。
そして新チームは春にエースナンバーを背負い、今井とともに作新学院を牽引してきた。しかし、ここで入江にとって忘れられない大会がやってきた。
「3年生の春季大会なのですが、県大会ベスト8で終わってしまったんです。それまでは投手は試合に出られるからやっていた感じだったんですが、そこからファーストにコンバートされて『もう1回やりたい』と思ったんです」
準々決勝で栃木工に敗れ、残すは最後の夏となった入江。
甲子園とエースを目指して作新学院に入った甲子園での登板を叶えたが、個人としてレベルアップするために、野球を深く突き詰めて取り組んでいなかったと反省する。
だが敗戦をきっかけに、練習1つ1つに対して強い意識を持って取り組むようになったのだ。
今回はここまで。次回は最後の夏を振り返りながら、大学野球の世界でのエピソード。そしてが大学野球ラストイヤーへの意気込みを伺いました。お楽しみに!
(記事=田中 裕毅)
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