目次

[1]食事に苦戦した中学時代
[2]高校2年生までは結果を残せず、苦戦を強いられた

 秋季東京都大会も残すは準決勝の2試合と決勝戦の1試合、計3試合だけとなった。秋の東京を制するチームはどこなのか注目が集まるが、昨秋の東京都大会で躍進した東東京の実力校・岩倉でエースナンバーを背負った宮里 優吾を覚えているだろうか。

 最速147キロと鋭く落ちるフォークを武器に都大会ベスト8、そして東京都選抜にも選出され、キューバの強打者と対峙してきた。夏はベスト16で都立高島に敗れ、甲子園を逃したが、都内でも屈指の好投手は東京の高校野球を牽引してきた。

 今回はそんな宮里投手にインタビューを行い、野球歴や技術論を伺った。


食事に苦戦した中学時代


 宮里が野球を始めたのは小学1年生。「WBCを見て、『野球をやりたいな』と思ったんです。父親も高校まで野球をやっていたので始めました」

 その後、宮里は久我山イーグルスで本格的に野球を始める。当初はサードやショートをメインに守っていたが、「投手が足りなくなった」ことがきっかけに小学4年生からピッチャーを始めた。
 「ボールを持っている時間は長いですし、投手次第で試合展開が7、8割決まるので、『一番大変だ』と思いました」

 コントロールは不安定ながら力で押していくスタイルで、1つ上の先輩の時から出場し、関東大会を経験。その後は硬式野球の東京練馬ボーイズ(現・練馬北ボーイズ)へ入団する。
 「硬式になってボールが大きくなりましたし、重くなりました。また距離が遠くなりましたので、投げることに関しては苦労しました。けど、無理して投げてしまうと肩と肘に負担がかかり選手生命にかかわるので、怪我は一番気を付けました」

 そこで宮里が大事にしたのが、体の開きと突っ込むことを抑えることだ。
 「シャドーピッチングをやる中で、体の開きを抑えるように壁を作ったり、タメを作ったり意識しました。あとは左腕の大きく回転させるようにして勢いを作って、速いボールを投げられるようにしました」

 こうして宮里はピッチャーとして一歩ずつ階段を登って行ったが、一番大きかったのは食事だったと語る。
 「食事を大事にするチームだったので、昼食でお米1キロ食べていました。最初は苦労しましたが、食事の回数を5回に分けて空腹の時間を無くすことを心がけました。
 そうしたら2年生くらいには食べられるようになりました。おかげで、ボールが速くなりましたし遠投の距離が伸びました」

 他にもバッティングでも飛距離が伸びるなど、プレーの質が向上した宮里。そして岩倉へ進学し、高校野球の世界へ飛び込んでいった。

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