目次

[1]プレッシャーとの戦い続ける日々
[2]野球界の守備を支える象徴であってほしい

 プロ野球をはじめ、高校野球など多くの年代層から人気のミズノプロ。2019年に30周年を迎え、1つの節目となったことを記念し、特別企画でミズノプロに携わったグラブ企画の担当者にインタビューし、当時の話やその時の思いについて語っていただいた。

 今回は、ミズノプロの久保田憲史執行役員の後を受け継いだ寺下正記次長にお話を伺った。

~ミズノプロ30周年・グローバルエリート10周年記念特集~
第1弾…3Dテクノロジーの先駆けとなったミズノプロ グラブが誕生するまで 久保田憲史執行役員
第2弾…3Dから4Dテクノロジーへ。進化を遂げたミズノプロ 寺下正記次長
第3弾…「自分の手のようにグラブを動かしたい」イチローのニーズは全プレイヤーのニーズ 柳館宗春さん
第4弾…進化のカギは「旧シリーズを超えろ」。スピードドライブテクノロジー開発秘話 石塚裕昭さん
第5弾…野球界の進化に比例してミズノプロも進化を続ける 須藤竜史さん
第6弾…ミズノプロに並ぶ、2大ブランドとなる宿命を背負うグローバルエリート

プレッシャーとの戦い続ける日々



当時の様子を振り返る寺下正記次長

 寺下次長がミズノプロに携わるようになったのは1995年。1991年に入社して3年間は技術職として商品開発の業務を経験し、94年から野球用具等の企画に異動。そして95年からグラブの企画も担当になる背景がある。

 元々理系出身の寺下次長は、データなど数字の面で強みを生かそうと企画の業務に取り組み始めた。その当時のミズノプロの事情を伺うと、「『初代のD-UPゾーンが10年経つくらいで新製品を出そう』という社内では目標が立つ中で、新たなミズノプロはどうしようか」というところからのスタートだった。

 当時、ミズノプロに携わることについて寺下次長に振り返ってもらうと、「プレッシャーしかなかったです。元々ゴルフで使われていたミズノプロというブランドを野球でも展開する方針から、1989年にミズノプロができた。そこから10年経って変わらなかったものを変える。そのことへのプレッシャーが強かったですね」

 そうしたプレッシャーを感じながらも、新たに編み出したのが前回のインタビューでも登場した3Dテクノロジーなのだ。



インタビュー中の寺下正記次長

 「究極の理想は素手で捕ることですが、実際にボールを掴むのはグラブ。では『一番捕りやすいグラブは何か』と考えた時に、プロ野球選手がゲームで使っているグラブが一番良いに決まっていると。それをミズノプロに忠実に再現するために、グラブ立体感を測定するためにポイントをマーキングして指先や根本などを重点的に調べました」

 こうして2方向から撮影することで奥行きを調べて立体感、つまり3Dをグラブに表現することができた。この時のことを寺下次長に聞くと、出てきた答えは意外なものだった。

 「世の中に対してあまり苦労はなかったですが、私が左利きだったことで周りからは『グラブ企画ができるのか』とか『内野手用がわかるのか』と。そういったイメージ払しょくが大変でした」

 社内からの厳しい視線を浴びながらも“初代のD-UPゾーンを変える”という信念だけは曲げずに取り組み続けた寺下次長。その分、店頭に並んだことは達成感を覚え、モチベーションに変わった。

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