上原 忠(沖縄水産)という野球人の生き方【後編】~憧れの師との数奇な運命~
前編では沖縄水産の上原忠監督がどうして監督を目指したのか、そして教員免許取得までの道のりを語ってもらった。後編では実際に教員として採用され、監督として実績を残すまでのプロセスに迫った。
上原 忠(沖縄水産)という野球人の生き方【前編】~具体的な目標を立て行動した学生時代~
栽弘義との出会い、指導者としての第一歩
沖縄水産の練習風景
ここからの上原 忠の野球人生が順風満帆かというと、まだそうでもない。
「採用試験すぐとって、(教員として)中学と高校どこに行かされるか分かんなかったですよ。それで結果的に中学だったんですよ、その時は高校に行けず泣きそうになって」
野球の神様は、上原に高校野球の指導者にいきなりさせずに中学を経験させることにした。
しかし中学とはいえ、野球の指導者になったことで、栽 弘義監督と接点が生まれた。これを機に、上原は栽の野球を吸収していくことになる。上原いわく「親分・子分」の関係というが、この師弟関係は長く続いていくことになる。
「僕は僕なりのやり方ですけども、ベースは裁先生のモノマネから始めて、それからアレンジしていくという感じでした」
と、この時期に中学生を指導しながらも着実に指導者としての技術を磨いていった。実際に、上原は高校の指導者になるまでに中学を2校回り、その後全国優勝した沖縄尚学のキャプテン比嘉寿光はじめ、多くの有望選手を指導し高校に排出していった。
ようやく高校野球の指導者となった上原
上原 忠監督
目標の高校野球の世界に入ったのは、上原が中部商に赴任してからだ。この時期を上原は、
「中部商業高校になってからは、裁先生と同じ高校の指導者になったわけです。(裁先生の沖縄水産は)かなり強くて雲の上のチームで、指導者は雲のもっと上の神様みたいな方なので、強いチームの作り方というのは 横だったり、後ろだったり、そばだったり、テレビだったりで見て学びました」と回顧している。
中部商に赴任し、始めの3年間は部長を勤め、4年目に監督に就任した。そして初の夏の大会で運命のいたずらが起きる。
なんと決勝で上原率いる中部商は、裁率いる沖縄水産と対戦することになったのである。大勢の見方は、沖縄水産有利の中、上原は沖縄水産を破る大金星を上げ、[stadium]甲子園[/stadium]出場を決めた。
裁監督にあこがれて入った高校野球、そして憧れの監督が率いるチームを下して決めた、[stadium]甲子園[/stadium]出場に、上原と裁の運命を感じる。
当時のことについて上原は
「閉会式の時に握手して励ましてくれて[stadium]甲子園[/stadium]の宿まで電話をくれて」
と語っている。
そこには、中学指導者の時からの裁との信頼関係を感じられる。
上原 忠監督
上原と裁の数奇な運命はこの後も続く。その2年後に中部商と沖縄水産は再度決勝で対戦することになる。そして、またしても上原は裁を破り、[stadium]甲子園[/stadium]出場を勝ち取った。
「裁先生が[stadium]甲子園[/stadium]に行けなかった2回は僕なんですよ。あの10年間で2回は僕が行かせなかったんです」。
いたずら好きな子供のような笑みで語ってくれたこの言葉は、天国にいる裁先生に「僕との試合覚えていますか?ここまで成長させてくれてありがとうございます」と語りかけているようだった。
その後、上原は母校の糸満に赴任する。中部商とは違い、グラウンドの半分だけしか使えない、それも平日の2回だけ。練習時間も限られているという環境の中、中部商業に続き糸満も[stadium]甲子園[/stadium]出場に導いている。
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現在、上原は沖縄水産で指導している。
「糸満を出た時にどこに行きたいかなと思ったら、裁先生にお世話になったから、もう一度、沖水のユニフォーム二文字を[stadium]甲子園[/stadium]で暴れさせるのが、裁先生への恩返しなんじゃないかなぁと思って、今やっているところです」
栽 弘義にあこがれて、高校野球の指導者になった男は今、裁と同じ沖縄水産のユニフォームを着て、[stadium]甲子園[/stadium]出場に向けて、チームを指導している。
上原流で挑む[stadium]甲子園[/stadium]、水産の2文字が[stadium]甲子園[/stadium]で躍動する日を楽しみに待ちたい。
文=田中 実