投手一本で飛び込んだ高校野球 靏仁がエースになるまで【前編】
同僚のスラッガー・水谷瞬とともにプロ志望届を提出した靏仁(石見智翠館)。力強い直球だけでなく、機敏なフィールディング、ターンの鋭い牽制技術も兼ね揃えた総合力の高さが売りの右腕は、「プロ(NPB)から指名がなかった場合は、独立リーグに進む」と進路を定めている。「1年でも早くプロへ」。この熱い思いを胸に練習に励む右腕を突き動かすものとは。
中学時代のチームメイトには、あの“スラッガー”も
靏 仁(石見智翠館)
福岡県北九州市出身の靏仁。小学校時代に軟式野球チームの徳力パワーズで野球を始め、中学時代は中間ボーイズで硬式に転向。中学時代のチームメイトには、高校生ドラフト候補屈指の右の大砲と呼ばれている濱田太貴(明豊)がいた。当時捕手を務めていた濱田とはバッテリーを組んだ経験もある。
「中学3年の時には、県外で勝負しようと気持ちは固まっていた」と話す靏。数ある選択肢のなかから島根への野球留学、石見智翠館を選んだ理由は何だったのか。
「中間ボーイズ時代の監督さんが僕の性格をよく理解していてくださって。信頼できる監督さんから『末光(章朗)監督の下で野球をやるのが、一番合っていると思うぞ』とアドバイスをいただいたのが大きな決め手になりました。また、ボーイズOBの白橋勇三さん(江の川時代の2003、2005年夏の甲子園に出場)からも『お前は智翠館がいいと思う』と同じように薦めていただいたこともあり、決めました」
本気で甲子園、プロ入りを目指すには寮生活で自分を追い込んだ方がいいという思いもあり、迷わずに石見智翠館へと進むことを決意した。
捕手コンバート案の浮上から“エース”になるまで
靏 仁(石見智翠館)
中学時代までは投手だけでなく、捕手も兼務していた靏。左打ちのバッティングのパンチ力、ガッチリとした体格ながら俊敏な動きができることもあり、末光監督のなかに「捕手・靏」の選択肢も芽生えたという。
「靏の代のキャッチャーが固まっていなかったこともあって、『靏にやらせてみようかな』と思っていた時期もあったんですよ。キャッチャーに転向したほうが早く試合に出るチャンスがあったんで、本人にとっても魅力的だと思っていたんですけど、『ピッチャーでいきたいです』と断られましたね(笑)」
当時をこう回想する末光監督。本人にも聞くと、「高校ではピッチャー一本で勝負したいと思っていたんです」と答えが返ってきた。
「中学までは両方をやってきて、それが今に活きている部分もたくさんあります。キャッチャーのスローイングを通じて肩も強くなりましたし、試合出場のチャンスが多くなり、経験を積めたのも良かった。ただ、先々の野球人生でどっちで勝負できるかといったら、やっぱりピッチャーだと思ったので、ここは譲れなかったです」
スムーズなフィールディング、走者の動きを察しながら投げられる牽制など、靏は決して「投げるだけ」の投手ではない。その力を養った裏側には、捕手の経験があったのだ。
投手一本で勝負を懸けた靏が、エースナンバーを手にしたのは2年秋。1年生大会を除けば、公式戦で初めて手にした背番号だった。
念願の背番号1を手にして臨んだ秋は、県準優勝で中国大会出場を掴み取る。センバツ出場が懸かる中国大会の初戦の相手は、最終的に優勝を果たすおかやま山陽だった。敗れたものの、この試合の投球からは大きな手応えを得たという。
「試合のなかで『通用した』と感じる部分がいくつかあったので、そこは自信になりました。優勝まで勝ち進んだチームでしたし、その後のセンバツでは乙訓の好投手2人からも点をしっかり取った打線だったので」
エースの座を奪い、成長の実感も味わった。冬を超えてさらに…と思っていた矢先に大きな落とし穴が待っていた。
前編はここまで。後編では靏に待ち構えていた大きな落とし穴。そして最後の夏と、ドラフトへの想いを後編ではうかがいました。お楽しみに!!
文=井上幸太
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