「軽く振って飛ばす」ことで自信が芽生えた中国地方注目スラッガー・水谷瞬(石見智翠館)【前編】
今春の島根大会準決勝から、中国大会初戦までの3試合連続で本塁打を放ち、「中国地区屈指のスラッガー」として脚光を浴びた水谷瞬(石見智翠館)。優勝候補に挙げられて臨んだ今夏の島根大会では、決勝で敗れ、惜しくも全国でその打棒を披露することは叶わなかったが、準々決勝で2本塁打を放つなど、4番としてチームを牽引。そして「上の世界で勝負してみたい」とプロ志望届を提出した。ドラフト指名を心待ちにする長距離砲は、「自分の能力に自信を持てなかった」とも語る。何をきっかけに自分の打力に自信を持ち、飛躍のきっかけを掴んだのか。今回、グラウンドで水谷本人に自身の歩みを語ってもらった。
「甘え」を捨てるために島根へ
水谷瞬(石見智翠館)
愛知県津島市出身の水谷瞬。小学生時代に、地元の軟式野球チーム・神島田クラブで野球を始め、中学時代は津島ボーイズでプレーを続けた。小中学生時代に所属した2チームはともに「練習の厳しいチームだった」と振り返るが、自分自身を限界まで追い込んだ経験はなかった、とも語る。
「練習量も多く、厳しいチームで野球をやっていたんですが、全体練習の後の自主練習で更に自分を追い込んだり…といったことはあまりできていませんでした。厳しいこと、苦しいことからついつい逃げてしまう、そんな『甘え』が捨てきれない自分がイヤだったんです」
実家から通うことのできる地元の高校への進学では、また同じことを繰り返してしまう。距離的に近い東海圏の学校に進むと、家族は何かと自分を気に掛けてくれるだろう。しかし、それでは同じように優しさに甘えてしまう。そこで、故郷から遠く離れた学校への進学を考えるようになったという。
所属していた津島ボーイズから石見智翠館への進学実績があったわけではない。自分自身で調べ、「ここで頑張りたい」と決意した。そして、中学3年の6月、学校、野球部のグラウンドを見学するために、人生で初めて島根の地に訪れた。
驚愕させられた先輩の弾道
水谷瞬(石見智翠館)
中学3年生の夏前に野球部のグラウンドを訪れた水谷だが、春夏合わせて10回の甲子園出場を誇る石見智翠館に圧倒されたという。
「当時中軸を打っていた村上航希さんが打撃練習で凄まじい打球を打っていたんです。ライナーが失速せず、そのままセンターの奥深くまで飛んでいく。『あんな弾道で、打球って飛ぶんだ』と思ってしまうような打球でした。そして、僕が見学させていただいた後に、チームは甲子園出場(2015年夏)。『ああいうチームが甲子園に行くんだな、すごい』と思いました」
このチームで自分を追い込み、絶対に甲子園に行く。この決意を固め、翌春に入学した水谷だったが、入学直後に大きな壁にぶつかることとなる。
ケガとの戦いに終始した高校野球1年目
中学時代までは小規模なチームでプレーしていたため、「最初は部員数の多さ、寮での集団生活に戸惑った」ものの、関西出身の選手も多くいるチーム事情もあり、軽妙な関西流の掛け合いでチームメイトともすぐに打ち解けた。
しかしながら、1年時は数か所の故障で足踏みが続いた。
「1年時に右ヒジと左手首を故障しました。そのため、取り組める練習に制約がある状態が長く続いてしまった。元々実績のある立場ではない自分が、満足に練習もできず、周りとの差は開くばかり。ここで『ダメなんかな』と思ってしまいました」
自分が停滞している間も周りは成長している。公式戦に出場し始める同期がいることも焦りに拍車をかけた。結局、公式戦のレギュラークラスが揃うAチームに食い込めないまま、高校野球1年目を終えた。
[page_break:「軽く振っても飛ぶ」ことに気づけた]「軽く振っても飛ぶ」ことに気づけた
水谷瞬(石見智翠館)
故障がありながらも、その時その時で取り組める練習に全力で取り組んだ。その日々を過ごすなかで、少しずつ持ち前の能力が開花し始める。
最初にAチームに入ったのは、2年夏が終わって新チームが始動したタイミングだった。2年秋の県大会で初めて背番号を手にし、主に「6番・左翼」で出場。チームの準優勝に貢献し、秋の中国大会に出場する。センバツがかかった中国大会初戦・おかやま山陽戦では、「守備の判断ミスをしてしまった」と振り返るように、実力を発揮しきれぬまま敗退。甲子園への道を断たれ、ラストチャンスの夏に向けて、冬に臨むこととなる。
ウエイトトレーニングにも熱心に取り組んだ冬が明けての練習試合解禁。ここで春の“覚醒”に繋がる感覚を掴む。
「練習試合で『あ、これはホームランボールだ』というような甘いボールが来たんです。今までの自分だったら『もらった!』と力んでしまって、レフトフライになっていたボールを力まず、形を崩すことなくとらえて、左中間に本塁打を打つことができた。今までよりも力を入れず、軽くスイングしたのに打球が飛んでくれた。『力まなくても飛ぶんだ』と思えた打席でした」
その感覚を反芻しながら臨んだ春の県大会。4番を担い、準決勝、決勝の2試合連続で本塁打を放つ。この2試合は強風が吹いていたこともあり、「あまり手応えはよくなかったが、風に助けられた」と振り返るが、好調を維持したまま迎えた中国大会でも[stadium]津田恒美メモリアルスタジアム[/stadium]の左翼スタンドに叩き込む。
「それまでは上のステージで好投手を打てる自信がほとんど湧いてこなかったんです。それは島根大会で2本打ったときも変わりませんでした。でも、中国大会で打ったホームランで『やれるかもしれない』と初めて感じることができたんです。」
中学まで練習で追い込み切れなかった記憶、入学直後に悩まされた故障。元来の控えめな性格も合わさり、いくら周囲から期待されても、自分の能力に半信半疑だった。そこから脱却し、わずかながらも“自信”が芽生え始めていた。
前編はここまで。次回の後編では高校野球最後の夏に迎えたスランプ。そのスランプをどのようにして克服し、指名を待っているのか。後編もお楽しみに!
文=井上幸太
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