目次

[1]誰よりも走って最後の夏で甲子園ベスト8!
[2]社会人で活躍するためにスタイルもすべて変えた
[3]ケガが自分を進化させた

 鳴門(徳島)から社会人野球の強豪・JR東日本に入社して今年で5年目。板東 湧梧投手が、右ヒジの故障を乗り越えドラフト戦線に帰ってきた。今季は7月の都市対抗野球で3勝を挙げるなど、一気に飛躍を遂げた板東投手。高校時代はザ・好投手といえる板東投手がいかにして140キロ後半のストレートを武器にする本格派へ化けたのか?
 高校時代からこれまでの歩みを振り返ってもらった。

誰よりも走って最後の夏で甲子園ベスト8!


 中学時、地元の鳴門が15年ぶりに夏の甲子園へ出場したのを見て、「同じ市内で野球をやっていた球友たちと『鳴門へ行って、一緒に甲子園を目指そう』と話し合って進学を決めました」という板東投手。だが、投手として入部したものの、すぐにはレギュラーポジションを獲得することができず。そのため、しばらくは小中学生の頃もやっていた内野手兼任としてプレーしており、初めての甲子園出場となった2年春のセンバツでも二塁手として起用されていた。
 そして、2年秋の新チーム結成を機にピッチャーへ復帰すると、秋季四国大会で準優勝。見事、センバツ出場を決めた。ただ、当時の鳴門は強力打線が看板で、板東投手は徳島大会での防御率が4点台。四国大会も3試合で16失点と打ち込まれた。「一応、エースだったんですけれどボコボコに打たれていたので全然うれしくなかったですし、この状態のままでは恥をかいてしまうので『甲子園に出たくない』という気持ちまでありました。」

 そこで、板東投手はレベルアップを目指し、冬のオフシーズンは走り込みに費やした。
 「鳴門にはランニングの3大メニューがあって、冬休みはその3つの練習をローテーションで繰り返していたのですが、一つ目は学校から少し離れたところにある鳴門霊園の長い上り坂と階段をダッシュで10本走る『霊園』。二つ目はやはり学校の近くにある妙見山へ行って妙見神社の階段を10本駆け上がる『妙見山』。そして、三つ目が一番きつかったのですが、学校から3kmほどの場所にある大手海岸まで砂の入ったペットボトルを持って走っていって、砂浜で長短のダッシュを繰り返す『大手海岸』。裸足で走るので寒いし、足が痛いし、もう二度とやりたくないくらいなんですけれど、当時は『自分が一番で走りきる』と誓って必死でやりました。」

 こうした地道な努力の甲斐もあり、「春になって最初にボールを投げた時、軽く投げているのにボールが思ったよりも行ってビックリしました。あの時の感覚はまだ覚えています」と球速もアップ。130キロが出るかどうかだったストレートはセンバツで139キロを記録し、初戦の宇都宮商(栃木)戦では1失点の完投勝利を挙げた。
 「センバツでは恥をかくどころか勝つことができて、甲子園から帰ってきてからは県内の見る目もがらりと変わったと思います。」

 その後も「ランニングでは引き続き、一番で走りきるように心掛けていましたし、練習後もジムに通って下半身や体幹を鍛えていました」と最後の夏に向けて気を緩めることなく練習を積み重ね、春夏連続で甲子園に出場。全国8強まで勝ち上がった。準々決勝では花巻東(岩手)に敗れたが163球の熱投。千葉 翔太(現:九州三菱自動車)のカット打法に苦しみ、千葉選手の5打席のみで41球も投げることとなった。

 「あの夏はずっと暑かったですし、大会に入った時から肩に痛みもあったので、今さら投球数が多くなろうが気にしていませんでした。ただ、千葉選手には何を投げてもバットに当てられてしまったので悔しい気持ちが強いですね。1度くらいは抑えたかったんですけれど、結局、四球を4つ出してヒットも1本打たれて全敗です(笑)。甲子園が終わった後、周囲から『千葉君と戦った人だ』とよく言われましたし、『どうせ四球なら、もっと簡単に歩かせれば良かったのに』とも言われましたけれど、こっちもムキになっていたのでそこまで冷静になれませんでした。不甲斐ない結果ではありますけれど、今となってはそれも良い思い出です。」

 そして、高校の3年間については「もっと効率よくできたところもあるでしょうが、泥臭い練習をたくさんやって、たくさん走って、その時に付けた体力があるからこそ、今も野球ができているのだと思います」と振り返った。