楽しさと辛さの両方を味わいながら甲子園準優勝! MIZUNO 田林正行さんが語る高校野球への想い【後編】
前編では高校野球界の超名門・智辯和歌山に入学した当初の印象やサイドスロー転換へのきっかけを、ミズノ株式会社のグローバルフットウェアプロダクト本部・クリーツ企画課で勤務する、田林正行さんに迫った。
後編の今回は、甲子園での経験や高校野球3年間が活きていること。そして最後に仕事の醍醐味や今を頑張る球児たちにメッセージを伺いました。
最後の1年、やっとの思いで決め球のスライダーを習得
グローバルフットウェアプロダクト本部・クリーツ企画課所属 田林正行さん
―― 田林さんの2年生を振り返ると、いきなり夏の初戦敗退と苦しい時期を味わいました。
田林正行(以下、田林): 入学して、3年生は5年間、甲子園に出てて、春は準優勝して、夏は優勝してって感じでしたから。僕たちは春も出れない、夏も出れない。和歌山の開会式直後の第一試合でいきなり負けたんです。頂点までいってから下まで落ちて、ぼくらはスタートしたわけですからしんどかったですね。
――新チームがスタートして3学年の中で力量的に比較すると、田林さんの代はどうだったんですか?
田林: 僕らは「あかんたれ軍団」という名前を高嶋監督からつけられて、全然使いものになりませんでした。だから見返してやろうと。
――その思いが、夏の甲子園準優勝につながったんですね。
田林: それはありますね。甲子園に行く楽しさも知って、プレイはしてないですけど、行けなかった苦しさも味わって、どちらがいいといったら明らかじゃないですか?そこに行くには何をするかですね。
――では、勝てる投手になるために田林さんが取り組んだことは何でしょうか。
田林: 変化球の習得ですね。当時のストレートは120キロ台でしたから、全然速くないので、コントロールが大事となります。
変化球も大事なんですけど、自分はあまり変化球を投げれなかったんです。やっと投げられるようになったのは、3年生6月くらいで、夏の大会が始まる前に自分にとって決め球となる変化球を身に付けました。
――どんな球なんですか?
田林: 単純なスライダーなんですけどね。いろんな握り方で、ひねり方とか、角度とか、いろんなことを試していって、ある日突然、むちゃくちゃ曲がるものが生まれたんです。それを武器に和歌山大会を投げました。
――そのスライダーをどういう感覚で投げたんですか?
田林: ドアのノブを開けるイメージですね。ドアのノブを開けるとき、手首を捻りますよね?僕の場合、普通に投げてたら曲がらなかったので、そのイメージで捻ってみました。スライダーの握り方とかいろいろあると思いますが、全然だめで。いろんなことを考えた結果がこの握りだったんです。このスライダーを習得して、投球の幅が一気に広がって、今まで投げていたストレートも生きてきました。
――どううまくなるか考えた結果が、投手としてのレベルアップにつながったんですね。ここまで投手としての取り組みについて聞きましたが、メンタリティの部分ではどういうことにこだわりましたか?
田林: 何が何でも甲子園に行く気持ちです。みんなの目標はもちろん甲子園で勝つことでした。甲子園に行くことじゃなくて、甲子園で勝つことが目標で、そこまで行くために、そのために僕ら高校に入ったようなものですから。何が何でも行くという気持ちでやってました。そして背番号も和歌山大会では背番号10でしたが、甲子園では背番号1に変わっていました。
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3年間は苦しかったけど、やってきてよかった
グローバルフットウェアプロダクト本部・クリーツ企画課所属 田林正行さん
―― その夏の甲子園は今までと違ったものでしたか?
田林: 選抜も出ましたが、全然違いましたね。観客もそうですし、負けたら終わりですし。ここで勝つためにやってきたから、全然満足はしてないし、緊張するし、足はがくがくしてました。それでも楽しかったですね。高校時代に戻れるとしたら、3年夏の甲子園に戻りたいです。
――決勝まで勝ち進めましたけど、決勝前に高嶋監督はどんな話をされたんですか?
田林: 特に話されてないです。褒められた覚えもあんまりないし。怒られたイメージの方が強いですね。最後の決勝戦(対明徳義塾戦)で、打たれて、7回まで投げ切って、ベンチに戻った時に、お疲れ様みたいなことを言ってくださって。その一言だけはよく覚えてます。
雨の中でも関係なく、自身でノックを打つ高嶋 仁監督
――当時の高嶋監督は今と全然違うんですか?
田林: 今は大分優しくなったみたいですね。僕の時よりも大分優しいと思います。先輩方からすると、もっと厳しかったみたいですし。ぼくらの時代も上の方から見たら、優しくなったと思えるでしょうね。
練習中はやっぱり怖かったですよ。でも、練習が終わると優しくて、着替えたりしてる時になると、話をしてもいいという雰囲気になってました
――確かに編集部で、智辯和歌山の取材で高嶋監督にお会いしましたけど、高嶋先生と選手はすごく距離が近くて驚きました。
田林: たぶん、指導方法とかも変えられていると思います。やっぱり時代に合わせたやり方なんだと思います。
――高嶋監督と選手とのやり取りを見てて微笑ましいなと思いました。練習もすごくやるチームですよね。ピッチャーはけっこう走るイメージがありますね
田林: そうですね。かなり走りましたね。
――3年間はどんな3年間でしたか?
田林: 苦しかったですね。苦しかったなあと思いますけど、その時は練習は当たり前だったんで。大学行って、どういう練習してたという話になるとすごいことしてたんだなと思いました。振り返れば、しんどかったけど、やっててよかったなと思いますね。野球だけをやってたわけじゃないですけど、野球で結果も出て、結果的にはよかったです。
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高校野球の3年間は大きな財産
現在販売中のPSシリーズ(左)とプライムバディー(右)スパイクは田林さんが開発した
―― では、ミズノに入社したきっかけは何ですか?
田林: 私は高校を卒業した後、同志社大学に進学して、大学を卒業すると同時に野球はやめようと思って、就職活動をして、一度銀行員になってます。その後、中途入社でミズノに入らせてもらいました。やっぱりスポーツと関わる仕事がしたくて、改めて野球から離れて、どこかないかと探していたところ、中途採用の募集を見て、受けさせてもらって採用してもらいました。
――去年、インタビューさせてもらった時にスパイクの開発に携わってるとおっしゃってましたが、中途入社した時からそのお仕事をしてたんですか?
田林: いえ、初めは広島営業所で、営業の仕事を5、6年間やってました。その時は野球用品とラケットスポーツ、テニスとか卓球とか、バドミントンの営業を6年ぐらいやって、1年半は野球の販促活動を広島でやらせてもらいました。それで、2年前に広島からこちらに移ってきました。
――営業職となると、田林さんのことをご存知なお客様も多いと思うのですが、いかがでしょうか。
田林: ありがたいことに多かったですね。まだ年月も経ってない頃だったので、覚えていただけていたみたいです。名前も名前で珍しかったので。営業に行って、なんか見たことあるんだけど、と言われて、名刺渡したら、あれ?という顔をされて。お客さんもスポーツをやっていた方なので、そういう接点で繋がることが多かったですね。
グローバルフットウェアプロダクト本部・クリーツ企画課所属 田林正行さん
――今のスパイク作りのお仕事の醍醐味をお聞かせ下さい!
田林: 醍醐味は考えたことを形にできるということですね。高校時代から用具はこういうものがあればいいなという思いや、現在の高校生や野球をするプレーヤーの事を考えて作ってるんですけど、それを形にできるということがすごい幸せですね。
こういうものを作りたいと思いがある人は多分いっぱいいると思うんですけど、実際、物にしていく過程に携わって、最終段階の物を世の中に出せるのがすごい幸せだなと思いますね。
――高校時代の経験が今に生きていることはありますか?
田林: やっぱりやってたことは活きてきますね。野球をやって、小学校から中学校に上がる時、金具の靴に変わり、土に金具が刺さって、ざくざくとする感覚とかも今も忘れてないですし。そういう子がどんどん増えてほしいなと思いますね。高校野球を経験して、やってきたことは財産になってると思います。
――最後に高校球児へメッセージをお願いします。
田林: 野球だけが全てではないと分かることはなかなか難しいと思うんです。それは誰かが伝えていけばいいし、いろいろ経験してみればいいと思うんです。ぼくも外に出てから、野球をやっててよかったと思ったので。過ぎ去ってみてから、過去を振り返って、こうした方がよかったとか、ああした方がよかったと後悔してることがあったので、早く気付いて毎日を過ごしてほしいなと思います。
文=河嶋 宗一
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