目次

[1]智辯和歌山に入学し、同期のレベルの高さに驚かされた
[2]転機となったサイドスロー転向

 和歌山きっての名門・智辯和歌山。今春、選抜決勝戦まで勝ち進んだが、夏、決勝まで勝ち進んだのは2002年だった。準優勝に終わったものの、その時エースとして活躍していたのが田林正行さんだ。現在はグローバルフットウェアプロダクト本部・クリーツ企画課に所属し、スパイク作りに携わる。そんな田林さんに智辯和歌山時代のエピソードを話していただきました。

智辯和歌山に入学し、同期のレベルの高さに驚かされた


グローバルフットウェアプロダクト本部・クリーツ企画課所属 田林正行さん

 ―― まず田林さんが智弁和歌山に行くことになったきっかけについて教えてください。

田林正行(以下、田林): 私は和歌山県にあります岩出中出身で、そこで軟式野球部で投手としてプレーしていたんです。野球部の先生が智辯和歌山の高嶋先生の智辯学園時代の教え子だったんです。それで一度、高嶋先生に来てもらおうかという話をしてくださって。それがきっかけです。

 ――田林さんが中学3年生だった1999年、智辯和歌山は夏の甲子園ベスト8まで勝ち進んでいます。そこに行けると決まった時はどうでしたか?

田林: 嬉しかったですね。初めは違う高校に推薦で行こうとしてたんです。
 でも、そこに行って甲子園に出られるのかって、当時の中学校の先生に言われたんです。確かにそうだなと思って。高嶋先生が来てくださって、たまたま自分を見てくださって智辯に行けることになりました。ものすごく嬉しかったですね。強い学校だったので。

 ――入学する前の智辯和歌山は選抜準優勝。3年生には池辺選手、2年生には武内選手、すごい先輩がいましたね

田林: びっくりしました。入学して、選抜が始まって、すぐ高校生として選抜の応援にも行って、それで準優勝しました。こんな人たちと一緒に野球するんだという感覚でした。それで、その夏は全国制覇して。すごいところに入ってしまったと思いましたね。



智辯和歌山高校

 ――智辯和歌山に入学して、練習に交じって、改めて先輩のすごさを感じましたか?

田林: 間違いなくみんなすごかったんですけど、同級生にぼくは驚きました。学年は10人しかいないんですけど、同じ学年でもすごい力の差を感じましたね。こいつ、すごいな、こいつらと一緒に野球するのかと。今まで、地元の小さな中学校の中でやってただけなんで、広いところに出ると、選手一人一人の能力が高かったので驚きました。

 ――そうなると、やはり不安を感じますよね。

田林: 不安しかなかったです。実際、スタートしても、元々ピッチャーで入ったんですけど、あまり使いものにならずに外野手になりました。外野手になっても、使いものにならずにピッチャーに戻って。挫折の繰り返しでした。そうやって自分は成長していったのかなと思います。

 ――その中で、ピッチャーとして自分はどういうふうに生きていこうと思いましたか?

田林: 最初は普通に上手投げで投げてたんです。だけど一回、1年生の夏に首になって悔しくなって。外野でも大成しなかったんで、1年の正月前にピッチャーに戻ってこいと言われましたが、上で投げても使いものにならないので、サイドスローにしろとアドバイスをいただいて。
 確かに、学年に10人中、5人ピッチャーがいたんです。そこからベンチ入りするには、ほかの4人にはない特殊な存在にならないと生きていけないので、横手投げをすることになりました。
 人と違うスタイルで生きていくという選択肢で、それを極めていった感じです。

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