国吉 大陸さん(興南出身)「一戦必勝の末に掴んだ紫紺の優勝旗」
2010年に甲子園春夏連覇を達成した興南の不動の1番バッターとしてチームを牽引した国吉大陸氏。強豪校を次々と撃破して紫紺の優勝旗を手にした選抜は、全試合でヒットを放っての打率3割6分という好成績だけでなく、要所でチームに勢いを与える活躍を見せた。後編ではセンバツの決勝秘話、そして高校野球について語っていただきました。
■前編&インタビュー動画「春夏連覇を達成した甲子園を今、振り返る」
今まで戦ったチームの中でダントツの強さだった日大三
国吉 大陸さん(興南出身)
1回表の第一打席は決勝戦の独特の雰囲気による緊張、気負いも加わってサードゴロに倒れた。
「気持ちがちょっと強過ぎましたかね。引っかけてしまいました。相手先発の山崎福也(現・オリックス)はほとんど調べていなかったので、どんな球かも想像できていませんでした。印象としては軽く投げている感じなんですけど、ピッと伸びてくる。低め、外角にきれいに集めてくる。沖縄にはなかなかいない、身長の高い左の技巧派でしたし、これは手こずるだろうなと思いました」
その予感通り、好調だった打線も4回表まで無得点。その間に島袋も2回に2失点、3回にも1失点。やはり、地に足が着いていなかったのだろう。2回の2失点はエラーが絡み。満塁の場面で島袋がファーストへまさかの牽制悪送球。ボールが転々とする間に二者が生還したものだった。
「高校3年間で戦ったチームの中でダントツで強いチームでした。その後、プロに行った選手も多いですし、大学で活躍でした選手もたくさんいる。すごいチームでしたね。ピッチャーは島袋が日本一と言えるくらいのピッチャーでしたが、打線は1人、1人の能力を比べたら勝てないという感じでした。チームとしての総合力も日大三が上だったと思います」
平常心を失っていた興南ナインが自分たちの姿を取り戻すきっかけとなったのは5回表の1点だった。
「悪い形で始まって、ずっと押され気味。決勝といういつもとは違う雰囲気もあって、いつの間にか5回くらいになっていました。正直、焦っていたと思います。でも、普段は厳しい監督も甲子園ではいつも自分たちを落ち着かせるような言葉をかけてくれるんです。
このときも『大きいのはいらない。1点を取るためにいつも通りのセンター中心に繋ぐ野球をしろ』という感じでした。5回、二死満塁で私に回ってきて、レフトへのタイムリーヒットで1点返せたんですが、チームがガッと盛り上がった。これで逆転モードに入ったと感じました。
その後はだいぶ落ち着いて試合を運んでいけたと思います。興南のアルプスとかも、『ハイサイおじさん』とか、応援で火をつけてくれて6回に4点取って逆転。その裏に私のミスもあってすぐ追いつかれましたが、ここからは技術というより、どっちが勝ちたいという気持ちが強いかという試合だったと思います。
みんな、それまでの何試合とは目つきが違っていました。島袋もそのあたりからギアを上げていった感じがしました。山崎もピッチングがまとまってきて、甲子園の流れというか、0が入り出すとずっと続いたりするんですけど、そういう雰囲気がありましたね。
決勝の特別な雰囲気を満喫していた
現役時代の国吉さん
6回を終わって5対5のスコアは9回が終わっても変わることはなく、延長戦に突入。そのときはどんな心境だったのだろう。
「嫌な雰囲気はなかったです。優勝に向けてみんな前向きで臨んでいましたし、甲子園の決勝戦を長く戦えるという幸せを感じていました。日大三という名門を相手に、こちらはチャレンジャー精神で伸び伸びとやれていた。最初は自分たちのプレーができていませんでしたけど、後半からは楽しくできましたね。決勝の特別な雰囲気を満喫していました」
決着は12回。表の攻撃で一気に5点を奪う。
「お互い我慢が続いている中、一死から山崎が真栄平をファーストゴロに打ち取ったんですけど、ベースカバーのときにファーストからのトスをポロッと落としたんですね。タイミングはアウトだったんですけど、真栄平が塁に出た。そこで今まで0が続いてきた流れが、ポツッと切れた感じがありました。0の流れが明らかに変わったのがわかりました」
その後、2つのフォアボールで一死満塁。続く、途中から出場していた安慶名舜が放った強いゴロはサードを守る横尾俊健のもとへと飛んだ。
「チャンスをもらった感じでしたし、完全に勝つムードになっていました。確かに難しい打球でしたけど、捕った後、ちょっと態勢の悪いまま横尾がホームに投げて、それをキャッチャーが捕れずに真栄平に続いて二塁走者の銘苅も生還しました。その後、島袋のタイムリーなどで、この回5点。優勝をほぼ確信しました。
島袋なので、さすがに5点は取られないだろうと。疲れとかも守っていても感じなかったです。198球も投げている印象なかったですが、島袋は体力がありましたから。でも、その裏を抑えて優勝が決まっても信じられなくて全然、実感がわきませんでしたね。正直、校歌を歌っていて嬉しかったのは初戦の方でした。やっぱり甲子園1勝への思い入れが強かったんです。あとは1戦、1戦、必死に戦っていたら優勝までできたという感じでしたから」
高校野球で野球人生を終えた理由
「高校3年間で頑張ったことは、絶対にその後の人生の支えになる」
夏も頂点を極め、選出された高校日本代表では履正社の山田哲人と二遊間を組むなど、世代トップレベルの選手として活躍し続けた国吉氏だが、野球は高校でやめることを決めていた。それも選抜出場を決めた前年の秋の時点で。
「九州大会はまだショートのレギュラーだったんですけど、準決勝で3つエラーをして、そのときに野球は高校で終わりにしようと強く思ったんです。自分の力のなさに本当にヘコんで、上のステージでは無理だ、と。それより勉強で大学に行こうと決めました。選抜で結果が出て、多少、迷いは生まれましたけど、迷っている時点で野球を続ける資格はないと思いました。中途半端な気持ちでやれるほど甘い世界ではないこともわかっていたので。父親が税理士をやっていた影響で、会計士になろうかなと考え始めたのはちょうど選抜のころでした」
そのため選抜大会中も時間があれば勉強をしていたという。明治大学に進学後は単位をきちんと取りながら資格取得のための専門学校にも通った。
「野球をやめたら生活が落ち着くかと思ったんですけど、2、3年間は全然、寝る暇もなくて。大学の授業が10時くらいからだと、まず先に専門学校に行って、それから大学に行って、終わったらまた専門学校。1日に2往復したりすることもありましたね。夜、専門学校が終わるのは22時くらいで、わからないところがあれば家で復習して、それから寝る。
野球みたいに1日が終わった後の達成感みたいなのもなかったので、本当に大変でした。野球をやめる決断をしたときに監督や、いろいろな人が『次のことでも、また頑張ってね』と後押ししてくれたので、そういう人たちの思いを裏切れないという気持ちがなければ、たぶんどこかで挫折していたと思います。会計士の試験に合格したときは、その日のうちに監督に連絡をしたんですが、すごく喜んでくださって、それも嬉しかったです」
恩師から野球を通して学んだことは今の仕事にも生きているという。
「本当にすべてが結びついていると思います。やっていることは全然、違いますけど、本番に挑むまでの準備の大切さは同じです。仕事だと現場でのお客さんとのやりとりに臨むまでの準備とかですべてが決まる。それに現場での洞察力、観察力。そういう部分は野球で磨かれてきた部分ですね。挨拶であったり当たり前のことをやるとか、そういうことはすべて今の仕事にも繋がっていると感じています。違うのは、道具を持っていないことと、走らないことくらいですかね」
そう言って、国吉氏は充実感に満ち溢れた笑顔を浮かべた。
最後に今の高校球児へのアドバイスをもらった。
「高校での3年間について今になって思うのは、なにか1つのことをあそこまで追い込める期間って、他になかなかないなって。社会人になってもそれなりに厳しいことがありますけど、あのときほどの苦しい経験ってもうないと思います。だから、そこで頑張ったことは、絶対にその後の人生の支えになる。
しかも、1人ではなく、同級生のみんなと一緒に頑張れる。嫌なことがあったり、大変だなと思うことがあるでしょうし、自信を失うときもあると思います。でも、そこで乗り越えようとすることで一人前の大人になっていくのかなと思うんです。やりきれたら、その先、どこでなにをやっても頑張れるという自信になります。挫折しないで最後までやり通してほしいなと思います」
国吉さん、ありがとうございました!
【動画】国吉大陸さんが振り返る3年春・夏の甲子園エピソード
(インタビュー/鷲崎文彦)
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