立教大学 山根 佑太選手×髙田 涼太選手(浦和学院出身)【前編】「浦和学院は個人の結果に一喜一憂しない」
2013年の第85回選抜高等学校野球大会、二桁得点3試合、また5試合で3失点と抜群の安定感で優勝を決めた浦和学院。その選抜優勝までどんな過程があったのか。今回は当時、主将を務めた山根 佑太選手、髙田 涼太選手にお話を伺った。
浦和学院は時間管理、報連相を徹底していたチームだった
山根 佑太選手(浦和学院-立教大学)
まず2人に浦和学院に飛び込んだときの感想を伺ってみた。
髙田 涼太(以下「髙田」) 最初は大変な部分もありました。練習の雰囲気の中で、周りの激だったり、「圧」を感じさせるものがありました。森先生も私生活の部分で、本当にダメなところをしっかりと指導してくれる方で、どうすればよいかというところから教えてくれました。当時は厳しいと感じましたが、今思えばよかったです。
山根 佑太(以下「山根」) 僕は広島出身なので、浦和学院がどんな学校なのかを知らなくて、最初飛び込んだときは、高校野球はどこもこんなものかなと思っていたのですが、実は日本でもかなり練習が厳しい高校だと後で分かりました(笑)。
寮生だった山根選手に、浦和学院の寮の環境について聞いてみた。浦和学院の場合は、ルームメイトは、先輩でも後輩でもなく、同級生となる。寮と思い浮かべると、どうしても、先輩と後輩の2人部屋とイメージしてしまうが、なぜ浦和学院は、同級生なのか?
山根 浦和学院は、先輩から率先して、何から何までやろうというのがスタイルです。先輩だから何もやらなくていいというのはうちにはありません。また寮の部屋は指導者の目が行き届かない。だから同学年だと思います。
野球界はどうしても後輩が先輩の世話役をするイメージがあるが、浦和学院はそうではない。まずは目上の者から率先して、グラウンド整備などの仕事を行っていくことで、浦和学院は人間形成を図っていったのだ。また社会人に欠かせない報告・連絡・相談の「報連相」。これは浦和学院も徹底して行っていたことだ。
山根 時間管理が一番徹底していましたね。例えば、整備をやるにも、10分で完了する。整備が始まったところで、ストップウォッチを押して、10分以内に完了させるように整備する。でも間に合わない場合は、コーチに『プラス何分追加してもよろしいでしょうか』と相談していました。なぁなぁにならないように時間管理するのが浦和学院でした。
先輩から率先して、雑用をやる。「報連相」もしっかりと行う。社会で通用することを、野球を通して育成するのが目的だった。
日本一になるためには妥協を許さなかった
髙田 涼太選手(浦和学院-立教大学)
浦和学院は日本一を目指すチームだ。日本一を目指そうと思えば、日々行われる素振り、ノックの数も多くこなす。それは苦しいことだが、彼らにとっては当たり前のことだった。『浦和学院が他校にはここだけは負けないところは?』と尋ねると、
髙田 気持ちですね。
山根 気持ち、つまり日本一になりたい気持ちです。甲子園の決勝敗退も地区予選敗退も同じ負け。勝たなければ次がないので。みんなが打って負けるより、無安打でも、1点を取って、無失点に抑えて勝つほうが大事だと考えていました。
だから浦和学院の選手たちは、個人の内容が良かったからと満足することはない。2人は2年夏にレギュラーを獲得し、甲子園に出場するも、3回戦で天理に敗れた。2人に2年生の夏を振り返ってもらった。
山根 個人的には打てていたのですけど、意味がないところで打っていて、勝利に貢献できていなかったと思います。
髙田 初めての甲子園でしたし、負けたのでそれが悔しかったのですが、自分らの代で恩返しをしようと思いました。あと天理戦で本塁打を打ちましたが、特によかったという思いはありません。やっぱりチームの勝利が最優先なので。
チームの勝利に貢献できたか。個人の結果で一喜一憂しないのが浦和学院の考えなのである。新チームがスタートして、主将は髙田となった。髙田自身、どんな思いで主将としてスタートを切ったのだろうか。
髙田 上の先輩がいないので、自分たちがまとまりをもって動いていかないと下の子も動いていかない。なので、横のつながりと縦のつながりも大事にしながら、たまには下級生を刺激したり、しっかりチームをまとめていくことを意識しながらやってきました。
そして浦和学院は、県大会準優勝で、関東大会に進出し、決勝では県大会決勝で敗れた花咲徳栄を破り、関東大会優勝を果たした。髙田は、
髙田 どの試合も苦しい試合ばかりで、楽な試合は一つもなかったです。結果的に勝ててよかったです。
そして3年連続で臨んだ明治神宮大会。しかし準々決勝で春江工に5点差を逆転され敗退。それは浦和学院にとってはショックが残る敗退だった。
山根 2回までに5点を取って、それで勝ったかなという気持ちのゆるみが逆転負けにつながったんです。神宮大会が終わった冬は、自分たちにあった隙をなくそうと思ってやりましたね。
また森監督は翌日のスポーツ新聞の見出しを部内に張り付けた。その見出しは『屈辱的大逆転負け』。悔しさを忘れるなというメッセージだった。また2人にとってこの負けは3年間を振り返っても、もっとも悔しい負けだった。
髙田 振り返ると、公式戦の負けは、秋の埼玉県大会決勝、これと最後の夏の甲子園だけですから、この負けは本当に悔しかったです。
自分自身に隙をなくすこと。そのことをテーマに日々取り組んできた。また浦和学院は冬の練習がとても厳しいことで知られる。その中でも最も苦しい練習だと挙げたのが、タイヤを引きながらのノックだ。
山根 ノッカーが8人いて、まさに乱れ打ち。守る選手はタイヤを引いて20分間捕り続ける。本当にきついですし、体力、技術も鍛えられます。そんな練習でも妥協しないように、させないようにしました。周りが妥協していたら注意。自分自身に妥協しない。それをテーマに取り組んできました。
自分に絶対に妥協しない。覚悟をもって浦和学院ナインは冬の練習を過ごしてきた。
徐々に浦和学院のレギュラーとして自覚をもって取り組むようになった山根、高田の両選手。後編では選抜の試合の振り返りと、浦和学院の良き伝統について語ってもらいます!!
(インタビュー・文/河嶋 宗一)