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第224回 北海道日本ハムファイターズ 増井 浩俊投手【後編】2014年11月18日
【目次】
[1]スピードが足りず果たせなかった大卒でのプロ入り
[2]コンディショニングに対する意識の変化
[3]引退後は高校野球の指導者になって3兄弟で戦いたい
引退後は高校野球の指導者になって3兄弟で戦いたい

北海道日本ハムファイターズ 増井 浩俊投手
――増井投手は静岡高時代、どんな投手だったのですか?
増井 スピードがちょっと速いくらいで、変化球もカーブしかありませんでした。体もガリガリで、今73㎏なんですが、当時は背が今とさほど変わらないのに、63㎏くらいでした。
――中学時代から文武両道の静岡高で野球をしたいと思っていたのですか?
増井 僕が中学3年の夏に、静岡高が甲子園に出場しまして。その時、僕と同じ焼津市・和田中の先輩が中堅手だったんですが、僕はその先輩にずっと憧れていたんです。それで、絶対に静岡高で野球をするんだと。ちなみにこの時のエースが、今季限りで引退した高木 康成さん(元巨人。静岡高-大阪近鉄-オリックス-巨人)でした。
中学のチームは9人ギリギリの“普通のチーム”だったんですが、すでに身長が178センチほどあって(ノーヒット・ノーランをするなど)目立っていたのか、静岡高の野球部から誘いもありました。ですが、入試に通らないと入れないので、しっかり勉強もしておくように言われました。
――2人の弟さん、次男の達哉さんは静岡高で03年夏に、三男の裕哉さんは静岡商で06年夏に甲子園に出場されていますが、増井さんご自身の甲子園出場は叶いませんでした。静岡高ではいつからエースで、どんな戦績だったのですか?
増井 2年夏に初めてベンチに入って、エースになったのは秋からです。ただ3年春は県で優勝して東海大会に進出したものの、エース番号を他の投手に譲る形になりまして…再び「1」を付けた3年夏は8強止まりでした。
――静岡高の練習は厳しかったのですか?
増井 練習はやらされる感じではなく、ある程度、選手の自主性に任されていましたね。高校生なので、もしかすると強制された方が楽なのかもしれませんが。個人練習も自分で考えてやってましたが、それが今に生きているような気がします。
――どんな自主練習をしたのですか?
増井 当時も投手は走り込みが重要だと言われていたので、よく走っていた記憶があります。学校の近くに静岡浅間神社という大きな神社があって、そこの100段階段で昇り降りもしました。駒大と東芝の厳しい走り込みにもついていけたので、高校時代はかなり走っていたと思います
――2人の弟さんも野球を続けているのですか?
増井 裕哉(静岡商-静岡大)は現在、静岡・伊東商の監督をしてます。達哉は静岡高を卒業してから日本通運で5年間プレーした後、静岡産業大で教員免許を取得し、今は静岡大成高の副部長として指導しています。実は僕も、引退したら高校野球の指導者に、という青写真を描いています。いつか3人で地元・静岡で戦うのが夢です。
ベストパフォーマンスを発揮するためのけが予防のお話しから、テクニカルなことまでたっぷりと語っていただいた増井投手、ありがとうございました!
(インタビュー・上原 伸一)