140キロカルテット‐。140キロ超の投手を4人以上揃えることは、トレーニング学が発達した現代の高校野球界でも容易ではない。2014年の東海大相模は、青島 凌也佐藤 雄偉知、当時2年生の小笠原 慎之介吉田 凌の140キロ超の4投手を擁し、大きな注目を集めた。小笠原、吉田の2人はプロ入りし、小笠原に至っては海を飛び越え、現在ワシントン・ナショナルズでプレーする。当時エースナンバーを背負った青島は東海大Hondaと名門チームで活躍を続けた。

 その中で、191センチの大型右腕として将来性を高く評価されていたのが、佐藤 雄偉知だ。佐藤は高校3年時に行われた2014年ドラフト会議で中日ドラゴンズから育成1位指名を受けたが、入団を断り、社会人野球の名門・ホンダ鈴鹿に進んだ。しかし、その後のドラフト指名はなく、2019年に現役を引退した。

 2014年のドラフト会議から10年が経過した今、東海大相模の140キロカルテットの1人として注目を集めた佐藤の高校時代の歩み、入団を拒否した当時の心境について迫った。

高校入学直後にプロ志望届の提出を決意

 相模原市出身の佐藤は幼少期から地元・東海大相模の野球を見て育った。中学時代には一二三 慎太(元阪神)を擁し、夏の甲子園で準優勝。

「東海大相模からオファーはありませんでしたが、当時の門馬敬治監督にお願いして、入学させてもらいました」と東海大相模に強い憧れを持ち、入学に至った。

 高校入学時点ですでに身長は186センチあり、最速は141キロを計測していたという。入学直後からベンチ入りし、1年夏に公式戦デビューを飾った。この夏の登板で右肘を痛め、しばらく実戦登板から遠ざかったが、2年春に復帰。2年夏は3回戦・保土ケ谷高戦で5回参考記録ながら、ノーヒットノーランを達成するなど、4試合(20イニング)を投げ、2失点の好投を見せた。チームは準決勝で横浜高校に敗れたが、140キロ後半を記録し、早くからプロ注目の存在となっていた。

 また、この時期から東海大相模の投手陣は同学年の青島、1学年下の小笠原、吉田とともに“140キロカルテット”と呼ばれ、注目を集めるようになった。

「自分自身は140キロカルテットと呼ばれていることについて、特に意識はしていなかったです。4人ともに強みや投球スタイルも違いましたし、とにかく自分も負けないように食らいつくことで必死でした。後輩もいましたが、良い意味で上下関係はなかったですね。4人共に長所を生かして配球の組み立てなど、各々での課題や長所を伸ばすよう日々の練習や実践で取り組んでいました」と当時を回想する。

 しかし、3年時は思うような投球ができなかった。「痛みなどはなかったが、しっくりこない感覚がありました。肩が突っかかる感覚があり、投げ方がコロコロ変わっていました」と不調に陥り、3年夏の神奈川大会は2登板のみ。チームは甲子園に出場したが、“140キロカルテット”の中で唯一、甲子園での登板がなく、最後の夏を終えた。

 それでも、高校1年時からプロ志望届を提出することを決めていたという。その背景には父親の存在があった。佐藤の父も学生時代に野球に打ち込み、プロスカウトから注目を集める選手であったが、プロ入りは叶わなかった。そんな父と小さい頃から二人三脚で野球の練習を行っていたこともあり、父が叶えられなかった夢を自分が叶えたいと考え、高校入学直後からプロを目標にしていた。

「3年時はあまりアピールができませんでしたが、入学時から個人の目標として置いていたので、その目標は曲げてはいけないと思い、プロ志望届を提出しました」

10球団から届いた調査書

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