2010年08月11日 阪神甲子園球場

仙台育英(宮城)vs開星(島根)

2010年夏の大会 第92回甲子園 1回戦

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(開星)

糸原の夏が終わった

 糸原 健斗は笑っていた。

 自らが放った快心のあたりが仙台育英の左翼手・三瓶の大ファインプレーによって阻まれ、スタンドの歓声が自らの敗北を意味するものだと分かると、はにかんだ笑顔を見せたのだ。

 試合に負けて笑う。「力を出し切ったからゆえの満足感が充満した」というようなアマチュアリズムが彼の中にあるわけではない。試合の勝利だけに一念をたぎらせてきたからこそ、その雌雄が決した瞬間に表情が緩んだのだ。

「打った瞬間は抜けたと思いました。相手のレベルが上だったなぁとそう思います。甲子園で勝つことを目標にしてきたんで悔しい」。

 その表情と言葉が裏腹なのは自らの気持ちを諭されたくない、彼のアスリートとしての意地があるからだ。勝負の世界で生きていく者に通ずるメンタリティーが、彼の持ち味である。

 糸原にとって、高校野球は苦悩の連続だった。1年秋、中国大会で9打席連続安打と言う離れ業をやったが、その後、大病が彼を襲った。難病にも指定されている潰瘍性大腸炎を患ったのだ。夜中じゅう、腹痛に襲われる日々が続き、食生活に制限を強いられる重い病気だ。それでも、2年春のセンバツでは優勝候補の慶応を破るなど、7打数4安打と活躍を見せたのは、彼のメンタリティーの強さによるものである。

  彼がその病から解放されたのは昨年の夏も終わりのころ。良く効く漢方があるという噂の病院を聞きつけ、そこへ向かったのだ。糸原に付き添った、当時はコーチだった、山内監督が、以前にこう話していた。
「ほとんど駄目もとの状態で、そこの病院に行ったんですよね。そこの漢方が糸原の身体には合ったんですね。そこからは問題なくなりました」。

 難病からの復活ストーリー。まさに、糸原にはそんなドラマチックな話があるのだが、しかし、彼自身、その話を好んでしようとはしない。過去に、この病気について聞いたことがあったが「もう過去のことなんで、取り上げなくていい」というのである。苦しんでいたという事実は、悟られたくない。むしろ、前を向きたい、そういう気質なのだ。

 ただ、そんな糸原でも「ショックだった」と振り返るほど、苦しんだ時期があった。今年春の選抜後、「問題発言」が格好の標的となり、その職を辞さなければならなかった恩師・野々村監督の辞任は糸原にとっても、衝撃的だったという。
「何がショックでというより、すべてにおいて、どう受け止めていいか分からなかった。受け入れられなかった」。

 野々村前監督を慕い、開星の門をたたいたはずなのに、その人物がチームにはいない。野々村前監督や学校自体を批判するのは簡単だが、17、8歳の高校生に、その状況を受け止めろというのは酷な話である。学生スポーツなどの監督辞任劇を見るたび思うことだが、学生のスポーツに置いて、諸事情の都合でトップに立つ人間を除外するのは無責任な話である。

 学校としては、これ以外の方策はなかったほど批判にさらされたということなのだが、発言の批判を矢面に立って受けなければならない人間が、チームにいないというのは、様々な意味で問題が生じる。

センバツ後も、開星への誹謗中傷は収まらなかったという。ネットをとおしての批判が彼らを傷つけたし、酒に酔った見知らぬ男性が学校に来て罵声を発するということまであったと聞いた。高校野球が人気スポーツであるがゆえに起きたことだが、前監督の発言の賛否はともかくとして、高校生が感じる必要のないストレスだ。

 「その中で、みんなでもう一度、甲子園に行こうといって、ここに、みんなと来れて、野球ができるのは嬉しい」

 今回の出場をそう前向きに捉えられたのは、彼のメンタリティーがそうさせたし、チーム自体が乗り越えてきたものが大きかった。

 しかし、今日の試合では序盤から試合を優位に進めながら、最後に自チームの失策から試合を落とした。最終回、みんながつないでくれた好機で、糸原は快心のあたりを放ったものの、念願の1勝は挙げられなかった。満足そうな表情とは裏腹の気持ちを、糸原はこう表現した。

 「甲子園を目指して生きて、勝つことで、(野々村)監督に恩返しがしたかった。勝って僕たちが間違っていないと証明したかったので、負けたのは悔しい」

 いつの時も、勝負師としての姿勢を崩さなかった、糸原の夏が終わった。

(文=氏原 英明
(撮影img14~50=宮坂 由香