「何も咲かない冬の日は下へ下へと根を伸ばせ」
 これは元・三洋電機副社長後藤清一氏(故人)の言葉である。

 秋田経法大附(現・明桜)で攝津正を指導した鈴木寿氏(現在は秋田修英で監督)は、「攝津は器用じゃないので練習で積み上げてきた選手」という。

 また、JR東日本東北の前監督・阿部圭二氏も「努力系だったことは確か」と断言する。

 攝津はこの春でプロ5年目を迎える。大きな落差のあるカーブを大きな武器とし、決め球のシンカーも冴える。豪速球はないが、個性の光る投球でWBCの代表候補に名を連ねた。

 過去4年を振り返ると、ルーキーの2009年には70試合に登板。34ホールドをマークし、最優秀中継ぎ投手と新人王に輝いた。翌2010年も71試合に登板し、2年連続で最優秀中継ぎ投手。オフには年俸4500万円から倍の1億円を提示されたが、「『倍あげてもいい』と言われたんですけど、3年やって一人前だと思うんで」と断って9500万円で契約した話は有名だ。

 3年目からは中継ぎから先発に転向したが、それでも14勝をマーク。そして4年目の昨季は17勝を挙げて最多勝、勝率.773で最高勝率。そして、投手にとって最高の栄誉である沢村賞が贈られた。

 結果を見れば順風だろう。眩しいくらいのプロ野球生活だ。そんな攝津は昔からスーパースターだったわけではない。指導者が口をそろえるように、コツコツ、コツコツ積み重ねてきた努力の賜物が形になっているのだ。

強いメンタルをみせた高校時代

 「攝津は中学の時、公式戦で1勝もしていないんですよ」というのが鈴木監督。実績という点では劣ったが、「力強い投げ方だった」と振り返る。

 当時、秋田県には硬式野球チームはなく、軟式野球部出身ばかり。そのため、高校入学後の約1ヶ月間は焦らずに、ランニングや体幹など、トレーニングの日々が待っている。キャッチボールやピッチングは5月から行われる。
 高校時代の摂津投手はといえば、投手として、ちょこちょこ登板機会は得ていて、夏にはベンチ入りを果たし、秋からは外野手兼投手として主力となった。  

 特別、打力があったわけではないが、鈴木監督はこう説明する。
「中学はそんなに強いチームでなかったので、(摂津は)試合経験がありませんでした。だから、ピッチャーでなくても、試合に入れておきたくて外野手として出していました」

 ブルペンには毎日入っていた。球数は本人任せだったという。冬場は室内練習場でサーキットトレーニングなどに励みながら、50球以内の制限を付けてブルペン投球も欠かさなかった。

 その摂津が、投手に専念したのは2年秋からだ。主戦として地区大会から奮闘した。この秋の公式戦は12試合で10完投。88回1/3を投げ、防御率1.83を記録している。

 鈴木監督が印象深いというのが東北大会初戦、仙台戦だ。
「2対1か1対0の場面で、1点リードしていた9回裏に攝津が同点ホームランを打たれたんです。(勝利まで)あと1人というところで。試合には、延長で勝ったんですが、打たれた時に攝津はベンチを見てニヤッと笑ったんです。彼はショックを受けていませんでした」

 鈴木監督は攝津の高校時代を振り返り、何度も「タフでした」と言った。
「たまに腰が痛いとか言ったことはあったけど」(鈴木監督)、長期離脱をしたり、試合に影響したりするような故障はしなかったという。そして、並の高校生なら、さぞガックリくる場面で笑えたように、心も強かった。

 この後の試合も延長戦をくぐり抜けて準決勝で酒田南を4対1で撃破。決勝で福島商に3対6で敗れたものの、選抜大会への切符を手にした。結局、攝津が甲子園の土を踏みしめたのは、この3年春の選抜のみである。

「高校の頃は、今みたいにテークバックはコンパクトではありませんでした。コントロールもよくなかったですね。社会人に行って、つかんでいったみたいです」(鈴木監督)

 3年夏は調子を落とし、大学などから声はあまりかからず、JR東日本東北で社会人野球の道を歩むことになる。当時、JR東日本東北にはスカウトがいて、その目にとまっていた。

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