京都学園(前監督) 堂 統 先生

 京都市右京区花園にある京都先端科学大附高校野球部グラウンド―――。
 監督室には、ソフトバンクのマスコットの人形が飾られていて、左胸には「28」の番号とともに、サインが書かれてある。
 さほど難しくなさそうなそのサインには「KENJI」とある。
 昨シーズン、プロ入り6年目にしてキャリアハイとなる12勝を挙げ、防御率2、03の好成績を残した。同校・OBの大隣憲司は、今や、球界を代表する左腕投手である。WBC日本代表候補にも選出され、大学時代に続く、日の丸を背負う。

▲監督室に飾られた大隣憲司選手のサイン

 「よう言いますよねぇ。○○選手を育てたって。大隣は育てたんちゃいますよ。ただ一緒に野球をやっていただけですよ。ほんまにすごい選手いうんはね、勝手に育つんですよ。そう思いませんか?」

 この部屋の主、堂 統前監督である。京都先端科学大附高を20年に渡り監督として率いた。今は、前部長で実弟の弘氏に監督職を譲ったが、大隣の高校時代に広く影響力を与えた人物である。自身は「育てた」ことを否定するが、ここを巣立っていったのは紛れもない事実なのである。何より、この言葉がその証である。

「あんまり帰ってくることはないんですけど、このオフは帰ってきました。奥さんを連れてね。大隣自身、いい成績を残して胸を張って母校に来たい、と。そういう風に思っているんやと思いますよ」

目次

【目次】
[1] 思いがけぬ登板でみせた快投
[2] 0-7のコールド負けから府大会優勝までの道のり
[3] 大隣選手から学んだこと

思いがけぬ登板でみせた快投

▲「ボーイズ時代から大隣を注目」と語る堂先生

 堂の大隣との記憶は中学時代まで遡る。むろん、最初は堂の片想いだった。

「彼が当時所属していたボーイズリーグの京都ライオンズの2年生のころから知っていました。投手としての印象はなく、バッティングが良かったんですよね。ウチとしては、バッターとして考えていました。ただ、大隣はピッチャーもできる事も知っていたので、両方やってもらおうという気でいました。でもね、本人の意思は他の学校に行きたかったんです。それが、不合格になったというのが僕の耳に入ってきて、大隣のことは2年生のころから知っていたし、ええもん持っていたんでね、本人にうちで頑張ろうという気持ちがあるんやったらという話をさせてもらったんです」

 入学が叶ったとはいえ、当時の大隣に掛けられていた期待は投手としてではない。中学の監督からの報告も投手としての可能性もさほど大きいものではなかったし、ボテっとした体格の上、走るのが苦手で肩やひじの痛みをすぐに訴える大隣に、投手として見込むのは無理があった。

 ところが、事態はひょんなところから急変する。
「彼が1年の春の府大会の時に、ウチが序盤で府立高に負けたんですよ。それで、僕がカチンときて、当時の上級生のピッチャー陣にお灸を据えたんです。『お前らは、使わん。ベンチから外れろ』ってね。ところが、その時ってGWの真っ最中だったんです。練習試合が組まれていた。といっても、そう言った手前、3年生を試合に出すわけにはいかんし、練習試合は組んでいるしで、そう思ったところ、投手としては練習してなかった大隣が頭に浮かんだんですよ。『お前投げられるよな、いけ!』って」

 すると、ほとんど投手として練習をしていなかった大隣が快投を見せたのである。オールストレートで勝負しながら、当時、力のあった東山高打線を抑えてしまったのだ。
「驚きましたね。まず、コントロールがよかった。相手チームには、いい打者がいっぱいいたんですけど、物怖じせんとインコースに投げるんです。表情が全然変わらないんですわ。度胸はあるし、コントロールはええし、これはええなと思った。そこから練習試合のメンバーにも入れて、夏の大会は『18』をつけさせましたね」

▲京都学園の投手陣・練習風景
(写真は京都学園エース佐藤君)

 その夏の大会、大隣は敗戦投手となる。延長戦にもつれた大谷との試合で、一死二塁からマウンドに立ったのだ。堂の思惑通り、そんな場面でも大隣が物怖じすることはなかったが、かすかに甘く入ったボールを捉えられて、サヨナラ負けを喫した。

 当時のことを大隣が話していたことがあった。
「コントロールって大事やなって。甘いところにいったら行かれるというのが分かった試合でした」というのが彼の回想だった。
 それ以降、大隣はコントロールを意識するようになったという。
堂の言葉で繋ぐ。
とにかく、大隣に感じられたのは、コントロール。低めに投げようという意識は高かったですよね。ブルペンで投げる時も、低めを意識して投げていたし、セットポジションをするにしても、ただセットで投げているんじゃなくて、試合をイメージしながら投げていました」
 とはいえ、それからの大隣は決して順調ではなかった。1年夏が終わると、ひじの痛みを訴えて戦線を離脱する。堂は「中学時代の監督からも、すぐ痛いって言うって聞いていましたけど、高校時代はそういうことが多かった」と振り返る。