約半世紀の指導歴、今年が最後……横浜・渡辺 元智監督
春夏通算甲子園出場27回、歴代3位となる甲子園で通算51勝を記録している横浜の渡辺 元智監督。この夏を最後に、約半世紀務めた、監督を勇退することを公言した。そんな、渡辺監督の半世紀はそのまま、横浜高校野球部の歴史でもある。
甲子園勝利数、歴代3位の輝かしい実績の背景には苦悩の時代も
渡辺 元智監督(ニュース:第86回選抜高校野球大会 関東・東京の最後の1枠は横浜!)
渡辺 元智監督(当時は元)が母校横浜高校の監督に就任したのは、1968(昭和43)年のことである。その3年前から、恩師でもある笹尾 晃平監督に声をかけられてコーチを務めていた。神奈川大に進学していたが、肩を痛めて野球を断念せざるを得なくなって、いくらか自棄的にもなり気持ちも塞がっていた時だったので救われた思いだったという。
監督就任5年目の秋季県大会で優勝し、関東大会に出場を果たす。関東大会では怪物投手と言われた江川 卓がいた作新学院に決勝で敗れるものの、1年生ながら大型投手として高い評価を受けていた永川 英植(ヤクルト)と中軸の長崎 誠(プロゴルファー)がいた、バランスの取れたチームとして、センバツ初出場を果たすことになった。
江川が圧倒的に注目を浴びていたその大会で、その反対ゾーンに位置した横浜は、初戦で小倉商に延長13回の末に長崎のサヨナラ満塁本塁打で勝利。準々決勝では山倉 和博(巨人)らのいた東邦を永川が完封して3対0。準決勝では勢いに乗っていた鳴門工(現鳴門渦潮)を4対1で下して決勝進出。
江川の作新学院を攻略して決勝進出してきた広島商とぶつかったが、0対0のまま延長に突入。10回表に1点を奪ったものの、その裏に追いつかれるという展開となった。そして11回、5番富田 毅の2ランで再び突き放し、その裏を永川が抑えて初優勝を飾った。これが、その後、甲子園の名将と呼ばれるようになっていく渡辺監督の初甲子園だった。
28歳にして掴んだ甲子園の優勝監督という勲章。ところが、そこから七転八倒の指導者としての苦悩が続いた。大本命と言われたその年の神奈川大会はミスで東海大相模に敗退。翌春は永川の投手力で出場を果たしたものの、2回戦で高知に敗れた。以降、4年間甲子園からも遠ざかる。
スパルタ方針から、大人のスタイルへ
渡辺 元智監督(試合記事:2011年秋の大会 第64回秋季関東地区高等学校野球大会 準々決勝)
そして、「指導者としては、やはり教員であるべきだ」という思いで一念発起して、関東学院大で教職免許を取ることに努めた。また、異業種交流のような場にも積極的に出席して、幅広い人たちの話を聞くようにしていった。
そんな折に、1年生に愛甲 猛(ロッテ-中日)が入学してきたこともあり、78年夏に渡辺 元智監督としては、初めての夏の甲子園に出場を果たした。初戦で徳島商に快勝したが、3回戦では県岐阜商に0対3と完封負け。さらには、元々複雑な家庭で育ち、素行にやや問題もあった愛甲が寮を抜け出すなどの事件もあり、やがて自宅で預かることにした。愛甲曰く、「ほとんど軟禁状態の日々」だったが、それで愛甲の野球への思いが育まれた。そして、80年夏には再び甲子園出場を果たして、雨中の準決勝で天理を下し、決勝では大会のアイドルとなっていた1年生エース荒木 大輔(ヤクルトなど)を擁する早稲田実を粉砕して、悲願の夏の選手権優勝を果たした。
しかし、その後に部員の不祥事などもあり、一時は監督を離れて部長として総体的な部分を見る側に回ったこともあった。復帰して、85年のセンバツに出場を果たし、その後も89年夏、92、93年春、94年春夏、96年春夏と甲子園出場こそ果たしているものの、その間の甲子園の実績は3勝8敗というものだった。しかも、エース候補として期待していた丹波 慎也投手が、練習試合後に帰宅して急性心不全で亡くなるという不幸もあった。
この時にも、監督を辞することも考えたというが、遺族の懇願で思いとどまることができた。秋季大会は背番号1を欠番で臨んだ。その後、それまで外野手で、エースナンバーを引き継ぐことになった松井 光介(亜大-JR東日本-ヤクルト)がみんなの思いを背負っていった。
この頃から、渡辺監督の指導もスパルタ方針から、選手との対話を重んじる、今の横浜に近い、大人のスタイルとなっていた。折しも、94年からは同級生の小倉 清一郎コーチを部長として招いていた。このことで、技術的なことやチームプレー的なことは小倉コーチが見て、渡辺監督はもっぱら生活的な部分や精神面についての指導を中心としていく体制になっていった。
横浜が築いた黄金時代
渡辺 元智監督(試合記事:2010年秋の大会 第63回関東地区高校野球大会 準々決勝)
その後、メディアでも大きく取り上げられていくことになる、「渡辺+小倉コンビ」の指導体制が確立していったのである。その成果が出たのが、98年だった。
エースで4番となった松坂 大輔とそれを受ける小山 良男(亜大-JR東日本-中日)のバッテリーを軸に後藤 武敏(法大-西武-DeNA)、小池 正晃(横浜-中日-DeNA)など、その後プロ入りする逸材も多いメンバーだった。
伝説となっているPL学園との延長17回の死闘や、明徳義塾の奇跡の大逆転となった準決勝などを戦いながら、最後は京都成章に対して、松坂がノーヒットノーランを達成して、春夏連覇を果たした。
この代の横浜は、秋季大会から明治神宮大会も含めて、センバツ、春季大会、そして夏の選手権から国体まで、公式戦無敗というチームだった。これで、横浜の黄金時代を築くこととなった。
翌春のセンバツは1回戦でPL学園にリベンジされることになってしまったが、翌年夏も甲子園に出場しベスト8に進出。01年夏は大会屈指と言われた日南学園の寺原 隼人(ダイエー・ソフトバンク-横浜-オリックス-ソフトバンク)を攻略し、準決勝で優勝する日大三に6対7と敗れるが、壮絶な打撃戦だった。
2年後のセンバツでは成瀬 善久(ロッテ-ヤクルト)と1年下の涌井 秀章(西武・埼玉西武-ロッテ)という二本柱で準優勝。涌井が残った翌年夏も駒大苫小牧に敗れはするがベスト8に進出。そして、06年春には川角 謙-福田 永将(中日)のバッテリーで春3度目の全国制覇を果たしている。超ベテランとなっていた渡辺 元智監督は、「孫のような選手たちと優勝できて、嬉しく思います」というコメントを発して、周囲を和ませた。
その後も08年夏には主砲の筒香 嘉智(横浜・DeNA)(2011年インタビュー)などを擁してベスト8に進出し、12年には本当の孫が入学してきて、13年夏と14年春と、夢のような実孫との甲子園出場も果たした。渡辺 佳明選手が3歳の時からキャッチボールをしていたという。まさに、高校野球監督としての約半世紀の中で、その集大成的な象徴になる出来事だったのかもしれない。
そして、15年春、渡辺監督はこの夏で勇退することを公言した。最激戦区と言われる神奈川で戦い続けたラストサマー、どのように締めくくっていくのか…、高校野球ファンは熱い思いで見届けていくことであろう。
なお、渡辺監督の後は32歳の平田 徹部長がその任を担うこととなっている。
(文・手束 仁)