代打という役割を経て得たもの
第4回 代打という役割を経て得たもの2011年06月25日
才能と苦悩がせめぎ合う舞台で登場した代打。
今春に行われた九州大会の開幕戦、6点差を追う自由ケ丘は、8回表の先頭打者に代打が告げられた。そして打席に立った背番号7は、冷静にボールを見極めると一振りで仕留め、目の覚めるような弾丸ライナーが、[stadium]県立鴨池球場[/stadium]の右翼スタンド中段に突き刺さった。その背番号7の代打・古橋次郎はこういった。
「流れを変えたかった」
その一打席に込められていた思いとは何か。
すべての高校球児は、野球人生において平坦な道のりばかりではない。その過程で挫折したり、限界を思いされたりして輝きを失われることもある。しかし、それを乗り越え、再び輝きを放とうというたえまぬ努力は、われわれ一社会人としても学ぶべきものがあるだろう。それも約2年半という限られた高校野球生活でのことだから、なおさらである。
ケガ、痛みに耐えての出場、手術、リハビリ、それを乗り越えて得たチャンス。
“代打”
その役割をどのように受け止めていたのだろうか。再び輝きを放とうとしている古橋次郎に迫った。
右肩の負傷
古橋次郎(自由ケ丘)
「思い切って投げることができなくなって、痛いながら投げていました」。
ケガしたのは1年秋の福岡北部大会決勝でのことであった。出塁していた古橋と相手野手が交錯した際に利き腕である右肩を負傷したのだ。それからというもの、単なる右肩痛だろうということで治療をしながら満身創痍(まんしんそうい)の状態で試合に出場していたが、センバツでさらに追い打ちをかけるかのように古橋の右肩に激痛が襲いかかった。それは初戦の東海大相模戦での試合前のノックの際に起こった。
「もう腕が上がりませんでした」
痛みが限界に達した古橋は、7回の得点圏に入ってから外野守備の途中交代を余儀なくされた。
同校の加藤政之部長は、「観ていた人たちは『なんで(古橋は)守備を代わったんだろうか』って思われたかも知れませんね」と当時を振り返る。
ケガをした2年春のセンバツ
そして2回戦も当然試合に出ることができなかった古橋は無安打のまま、しかも腕が上がらなくなるほどの激痛を抱え、無念のまま甲子園を後にしたのである。その後、地元に戻り、病院で精密検査をした結果、下された病名は「右肩の靭帯断裂」。さらに右肩の他の部分も併発していた。
しかし、「3年生と一緒に野球がやりたい」という古橋は、夏の大会が終わるまで1球を投げるたびに起こる右肩の激痛と闘い続け、大会終了後の8月下旬に右肩の手術に踏み切った。
その後は、リハビリに励みながらも当然、練習は別メニュー。
腕を固定しているため、腕を振らずに走るなど思うように動けないまま、出来る範囲で下半身強化を行ってきた。
そして今年に入って、投げることは未だしも、打撃に関してはみんなと同じメニューができるようになり、思い切りスイングできるようになった。
1年秋から中軸を任されている選手が長い間、試合に出場できず、我慢してのリハビリ、そしてやっとできるようになった打撃練習。そんな苦悩から相当悔しさもあっただろう。しかし、意外にも古橋の口からはこんな応えが返ってきた。
「悔しいとかそんなに思わなかった。平常心でした」。
自ら“素”の部分を匂わせるような平常心。それを当たり前のように保つのだからある意味、古橋の芯の強さには恐れ入る。そしてその平常心こそが、古橋次郎の持ち味なのかも知れない。
「もし、ケガをしていなかったらもっとやれたということではない。今の自分を受け止めて、慌てても仕方ないので、できることに集中しました」。そんな古橋に訪れたチャンスが“代打”である。
代打生活
今春の九州大会では代打で本塁打を放った
3月の練習試合解禁後から、1試合で1打席のみという代打生活が始まった。だが、試合中、常にいる場所はベンチ。グラウンドで戦うチームメイトを横目にどんな思いで試合を見つめていたのだろうか。
それまで古橋が代打に関して思っていたことは「相手チームでチャンスに代打が出てきたら、こいつ打ちそうだなって感じはありましたが、特別意識はなかった」という程度。あくまで自分が守っていた視点でのことが頭によぎるくらいだった。
野球を始めてからずっとレギュラーだった古橋は、中学でも高校でも代打の経験はもちろんある。しかし、その経験とは下級生時に試されて出場するという意味での代打である。
試しに出場する代打と勝負どころでの代打。一打に懸けるという意味では同じだが、試合を決めるという意味では、チームの勝利を左右する大きな一打席となった。
「試される時とは、なんか違いますね。打つしかないって感じですから」そんな古橋にベンチで末次監督は常々こういっていた。
「ベンチにいるときに配球を読んで、『よし、オレはこのボールを狙うんだ』と考えて、どこで(代打が)いくのか、自分で試合の流れを読みなさい。それがわかって代打でいけるように手袋とヘルメットをつけて準備しなければ、代打は成功しない」。
結果、練習試合、公式戦を含めた代打・古橋次郎が記録した打率はなんと7割。
「目標を持っていると迷いなく、いい結果が出る」という末次監督の言葉通り、結果を残し、そして冒頭でも紹介した九州大会でも見事な弾丸アーチを放り込んだのだ。
「チャンスでいつも使ってくれていたので、心構えはいつも出来ていました。監督さんにいわれていたように準備すること、それと試合の流れとピッチャーの配球をよく読めるようになりました」。
それまで無我夢中で試合に出場していた古橋にとって、落ち着いて試合の流れが読めるようになり、冷静な判断ができるようになったことも代打生活を経て得たものだろう。
右肩も順調に回復している
現在の古橋はというと、懸命なリハビリの成果もあって、術後の経過も順調で、遠投では60mくらいを投げられるようになっている。そして北九州市長杯とNHK旗では3番・左翼手として、その後の練習試合でもずっとスタメンで試合に出場し、1年近くなる攻守のリズムという試合勘を取り戻そうとしている。そして自らを奮い立たせるように古橋はきっぱりとこういった。
「夏の大会までには、完璧に間に合わせたい。悔いは残したくないですから」。
実はインタビューをしているうちに古橋はこんなことも思い出していた。
「そういえば、練習試合での(高校)初打席。その時も代打でホームランを打ったんです」
なんと、代打で登場した高校初打席で初本塁打を放っているのだ。もともと1球に対しての集中力を持っていたのだろう。しかし、挫折感を味わいながらも、平常心を保ってここまでやってきたことが、時として古橋の大きな力になっているはず。
代打という役割を経て、古橋が得たもの。それは単なる一打に対する集中力という次元の話ではない。古橋次郎という選手が大きく成長するために神様が与えてくれたチャンスだったのかも知れない。
(文=アストロ)
【古橋 次郎(ふるはし じろう)】
1993年4月7日生。福岡県中間市出身。中間東中学時代は北九州パイレーツに所属し、三塁手兼投手として活躍する。自由ケ丘高校入学後は、1年秋から主に6番・右翼手として活躍し、九州大会ベスト4。下級生ながら同校初のセンバツ出場に大きく貢献した。180センチ、80キロ、右投左打。
■古橋次郎(選手名鑑)