目次

[1]松坂と並んだ夏
[2]悲劇のドラフトから九州共立大/苦悩続きのソフトバンク


松坂 大輔 <写真:日刊現代/アフロ>、新垣渚<写真:日刊スポーツ/アフロ>

松坂と並んだ夏


 新垣は、最後の力をふり絞って、夏に向かった。新垣は小学生のころに受けた交通事故で脛を骨折。中学まで金具のボルトをいれたままの生活を余儀なくされた。兄の影響で始めた野球。一時断念も考えたが、沖縄水産に入学。亡くなった栽弘義監督のもと、大事に育てられた。

 新垣を初めて学校で取材した際の栽監督の言葉を思い出す。

 「この子(新垣)はとんでもないピッチャーになるよ。素質は自分が育てた中で一番」

 ブルペンでの迫力ある投球練習をみながら、自分もそう思った。「足が弱いから。下半身をあんまりいじめられないんだよ」。厳しい指導で有名だった名将も将来を見据えて育てた。1991年夏、2年連続で夏甲子園で準優勝した。あと一歩と迫った夢の全国制覇に、右ひじを故障していた大野 倫を痛み止めの薬を飲ませて最後までマウンドに立たせた。その闘将の姿は、そこにはなかった。だから宮里というもう1人の投手を育て、新垣との2枚看板で悲願の優勝を狙っていた。新垣はチームにとっても大事なピースでもあり、将来の日本球界を背負う素質があると見込んで、大事に育てた投手でもあった。

 

 新垣はいやな走りこみも行った。けが予防との勝負と戦いながら、下半身作りを目指した。そして迎えた最後の夏。初戦で冒頭の試合を迎える。「151キロマーク」。センバツの松坂を超える速球に自信をつけ、夏の甲子園切符をつかむのだった。

 甲子園に戻ってきた新垣の夏初戦は、くしくもセンバツ同様に「埼玉県勢」だった。浦和学院に敗れた悔しさを、埼玉栄にぶつけるつもりだった。松坂は初戦で大分の柳ヶ浦に勝利した。自分も負けられない。大会8日目、沖縄水産埼玉栄と対戦した。初回に沖縄水産が1点を先制すると、先発宮里がその裏に3点を奪われて劣勢でスタートした。しかし、3回途中の無死二塁で新垣が2番手として登板すると流れが変わった。四球こそ与えたが、その後に2年生スラッガー4番大島 裕行を遊撃への併殺で打ち取ると、150キロの直球を武器に三振でピンチを切り抜けた。すると沖縄水産打線は4回に1点、5回に2点を奪い4対3と試合をひっくり返して見せた。

 新垣は6回までスコアボードに0を並べた。4回には自己最速タイ、甲子園ではこの時点で甲子園最速となる151キロも計測して甲子園を驚かせた。だれもが沖縄水産の逆転勝ちと思っていたなか、運命の7回を迎えた。

 先頭打者に二塁打を許したが、その後2人をバント小フライと三振に仕留めた。迎えたのは2年生大島だった。新垣はそこまで遊撃併殺打、三塁ゴロに打ち取っていた。しかし、初球の直球がやや高めにいくと、大島はフルスイング。打球は高々と右中間スタンドへ舞い上がり、逆転2ランとなって無情にもスタンドに転がった。

 「投げた瞬間、ああーとなりました。見事にとらえられた。外角を狙った直球がど真ん中に入ってしまった。頭が真っ白になって、何が何だか分からなくなった」

 当時のスコアブックには、新垣のコメントがそう記されている。一瞬の出来事だった。今でもそのシーンは脳裏に焼き付いている。新垣は体調を崩し、風邪気味だったが、言い訳にはしなかった。「みんなと楽しく野球がやれてよかった。悔いはないです」。そう振り返るとともに、こんなコメントも残っていた。

 「松坂と比較されて、うれしかった」

 ライバル松坂との待望の再戦は春も夏も実現しなかった。春も夏もどこまで勝ち上がれば横浜と対戦するのかと、みんなで意識しあっていたという。大会のたびに宮里と新垣が交互に先発する試合が多かったが、甲子園では横浜との対戦を考えた上で、春も夏も初戦は宮里が先発していたのだという。そこまで意識していたライバルとの戦いを前に自分たちが敗れた。悔しい思いもあるだろうが、松坂がいたから頑張れた。松坂と球速を競い合ったから頑張れた。松坂と比べられていた自分が、うれしかった。

 今ではコロナ禍でなくなったが、例年、開会式後の球場周辺では、華やかな「記念撮影会」が行われる。全国の有名選手が一同に会する機会はそうない。選手同士でも「あの選手と写真を取る」というのがトレンドでもあった。松坂は恥ずかしがり屋の性格もあってか、動き回っていたらしいが、新垣はじっと立ってリクエストに応えていた。当時、190センチ近い選手はそういない。相当目立つだろう。新垣にはそんなやさしさと人懐っこさがあった。