悲劇のドラフトか九州共立大


 その後、新垣はさらに松坂との距離を広げられることになる。運命のドラフトで西武1指名を受けた松坂とは対照的に、希望していたダイエーではなく抽選の結果、オリックス指名が確定した。ダイエー志望の気持ちが変わらないため九州共立大への進学をオリックス側に伝えるも、粘り強く交渉を進めようとするオリックススカウトと会わない選択をした結果、オリックス三輪田 勝利・編成部長の自殺という衝撃的な事件とつながった。心身ともに憔悴しながら、九州共立大に進学。極度のホームシックに悩み、寮を抜け出して沖縄に帰ったこともあったが、1年秋には明治神宮大会で大学日本一に貢献し、大学4年秋のリーグではMVPとベストナインにも選ばれた。

苦悩続きのソフトバンク


 晴れてダイエーに入団し、ルーキーの03年には日本一も経験した。04年には最多奪三振のタイトルを獲得したが、その後はシュートを習得した影響か、暴投を多発することになる。「暴投王」という不名誉な称号も付けられ、07年にはシーズン25暴投という日本記録も樹立?してしまった。球速は大学時代に156キロまで伸びたが、プロでは伸びなかった。高卒ルーキーでプロ入りした松坂が順調に成績を伸ばしていった姿とは対照的だった。

 現在は、ソフトバンクの球団職員として働いている。ジュニアチームの監督も務めたが、今はユーチューバー的な存在で、野球の普及などに携わっている。

 「松坂世代を引っ張り、仲間に夢を見せ続けてくれてありがとう。これからは体をいたわってほしいです」

 松坂が21年シーズン限りで引退を表明した時の新垣のコメントだ。松坂は2015年から3年間、ソフトバンクのユニフォームを着た。ほとんど活躍することができなかったが、新垣がヤクルトに移籍して空いた背番号18をつけた。新垣は松坂の所属ラストイヤーの17年から球団職員となった。1年だけ「同球団」にいたことになるが、立場は全然違っていた。

 沖縄水産のユニフォームで横浜と甲子園で戦いたかった。あの青春の日の情熱は夢と消えたが、野球人としての新垣を大きくさせたことは間違いない。

(取材・文=編集部)