反省だらけのセンバツ
この日は朝から寒かった。センバツは3月下旬から、行われるが、甲子園のネット裏の記者席は「冬」のままで終わることが多い。1998年3月26日、第1試合、沖縄水産対浦和学院の試合が行われた。沖縄水産の背番号「10」の新垣はベンチスタート。試合序盤は3回に2点を先制しながら、その裏に1点を返された。2対1のまま、5回に入り、先発の宮里が無死二、三塁とピンチを招いたところで、新垣はマウンドへ。あこがれの甲子園デビューを果たした。
その記念すべき第1球は打者背中への死球。その後の一死満塁からストレートの四球を与えて同点とされた。緊張からか制球が定まらず、続く6回には四球、死球からのバント処理で自らミスを犯して勝ち越しを許すと、味方にも失策が出て2対4とされた。そのまま試合は終了。新垣は横浜と対戦することなく初戦敗退に終わった。
当時のスコアブックには新垣の無念さがメモに残っている。
「うまくいかなかった。ストライクが入らなくて動揺した。力みすぎてしまいました。昨年秋の神宮大会から肘が少し悪かった」
チームとしては負けたが、「東の松坂、西の新垣」と呼ばれた怪腕ぶりは発揮した。4イニングで7奪三振。直球も自己最速を2キロ上回る147キロをマークした。当時、直球とスライダーだけだった。甲子園マウンドの最初のアウトは143キロ直球空振り三振。その後は、スライダーの空振り三振が2で、残り4個はいずれも直球の見逃し三振だった。5回二死満塁での見逃し三振と、センバツ最後の打者となった見逃し三振の球が最速147キロ。何よりも打者19人に対してヒットはわずか1。それも三塁への内野安打だった。4四死球と2失策、1盗塁で3点を奪われた。投手としては典型的な自滅だったが、「怪腕」の大器の片鱗を見せるには十分だった。
それでも、このセンバツで、松坂は高校球界初めて150キロの大台をマークし優勝したのとは正反対だった。「あっけなく負けてしまった。悔いが残る負け方だった」。現実だけが残り、新垣は松坂との差が離れていくのを感じるだけだった。
(取材・文=編集部)