松坂と並んだ沖縄の怪腕、甲子園では太く短く輝いた~新垣物語【前編】
高校時代の新垣渚 写真:日刊スポーツ/アフロ
151キロの衝撃
とにかく暑かったことは覚えている。1998年7月11日。沖縄大会の夏予選を初めて取材した時だった。[stadium]宜野湾市立野球場[/stadium]で、沖縄水産対与勝の試合を取材した。お目当ては、南国の怪腕、沖縄水産の新垣 渚投手。最後の夏の初戦、背番号「10」だったセンバツからどこまで成長しているのか。沖縄県勢初の全国制覇の夢を地元ファンから託されていたチーム。その右腕が背番号「1」をつけて迎える夏の最初の試合に心ワクワクしていた。
自分でも人生初を味わった。2対2の同点で迎えた5回裏に沖縄水産が5点を奪って勝ち越した直後の6回表に、2番手として主役新垣がマウンドに上がった。初球に力を込めた。最後の夏の初球だ。力が入らないわけがない。ネット裏に陣取ったスカウトの隣で新垣の投球を見つめていたが、スピードガン表示が「150」を映し出す。周囲がざわついた。他球団のスカウトらのスピードガンでも大台を突破したのだろう。今でこそ、たまに高校野球でもお目見えする数字だが、23年も前はまだまだ「未知」の域でもあった。この年のセンバツ、新垣は甲子園で最速147キロをマーク。4月の春の九州大会ではメジャースカウトのスピードガンで94マイル(151・275キロ)をマークしていたが、夏の初戦第一球から150キロの大台に乗せてみせた。
その後、一死二塁となって迎えた8番打者。フルカウントから投じた7球目だった。右打者の内角高めを襲った投球が、やや高めにそれて打者の顔付近、やや上を通過した。ボールで四球。「あああ」と球場が溜息に包まれた中、ネット裏が違うざわつきを発した。スピードガンに「151」と表示されたからだ。その後、新垣は4イニングを投げて3者連続を2度マークするなど8奪三振。チームの逃げ切りに貢献した。
衝撃の151キロにも新垣は「90点くらいだった」と振り返っている。「球は走っているなと思ったが力んでしまった」。まだまだ通過点だと思っていた。
しかし、151キロを体感した側は衝撃のコメントを残している。相手チーム与勝の兼城選手は、四球となった頭付近のボールに次のように言葉を発した。
「(新垣が)球を離した瞬間から(球が)見えなかった。途中から見えた感じだった。マシンで速球対策をしてきたが、本人とマシンは違っていた」
球が「消えた」と証言した。自分が経験したことがないから、どんな感じなのか、打者目線で参考までに聞きにいったが、予想を上回った。「途中から見えた」という言葉で、それまで自分が抱いていた疑問が解けた。新垣が投げた頭付近の151キロのボールに対して、兼城選手は派手によけるしぐさをしなかった。151キロが頭に向かってくれば、恐怖で頭を下げるなどのしぐさをするのが普通だろう。よけられないほど、速かったのだろうくらいに思っていたが、本人曰く「見えなかった」のが真相だった。途中から球が見えたときには、すでに捕手のミットに収まっていたのだろう。当たらなくて良かった。
生まれて初めてみる151キロの世界。投げた本人はひょうひょうとしていたが、打席では異次元の世界となっていた。高校球界の怪腕として、全国にその名をとどろかせた新垣。ここまで成長した裏には1人のライバルの存在があった。センバツで高校生として初めて150キロをマークした横浜の松坂 大輔である。松坂と出会い、松坂と対戦して勝ちたいと願うようになって迎えた夏で、新垣は一気に「松坂超え」を果たした。
松坂との出会い
高校時代、新垣がライバル松坂と対戦したのはわずか1度しかない。1997年11月19日、高校2年の秋、明治神宮大会の決勝で対戦した。沖縄水産は仙台育英、敦賀気比を破って勝ち上がると、横浜も豊田西、国士舘を破って決勝に進出していた。新垣はベンチスタート。先発の宮里が4点を奪われ迎えた8回に新垣は登板し、その回に1点を失ったが9回は無失点に抑えた。チームは8回裏に3点を返したが、反撃はそこまで。3対5で沖縄水産は完投した松坂の前に敗れた。最速145キロ右腕として九州チャンピオンとなり、全国の舞台を踏んだが、松坂の前に沖縄県勢初の全国制覇の夢は断たれた。
「すごい投手だと思った。松坂とまた対戦して、今度は勝ちたい。松坂を超えたい」
その後の約1年間、新垣は常に松坂との争いを軸に過ごすことになる。松坂は新垣を成長させ、その新垣に刺激を受け、松坂も成長していった。
反省だらけのセンバツ
この日は朝から寒かった。センバツは3月下旬から、行われるが、甲子園のネット裏の記者席は「冬」のままで終わることが多い。1998年3月26日、第1試合、沖縄水産対浦和学院の試合が行われた。沖縄水産の背番号「10」の新垣はベンチスタート。試合序盤は3回に2点を先制しながら、その裏に1点を返された。2対1のまま、5回に入り、先発の宮里が無死二、三塁とピンチを招いたところで、新垣はマウンドへ。あこがれの甲子園デビューを果たした。
その記念すべき第1球は打者背中への死球。その後の一死満塁からストレートの四球を与えて同点とされた。緊張からか制球が定まらず、続く6回には四球、死球からのバント処理で自らミスを犯して勝ち越しを許すと、味方にも失策が出て2対4とされた。そのまま試合は終了。新垣は横浜と対戦することなく初戦敗退に終わった。
当時のスコアブックには新垣の無念さがメモに残っている。
「うまくいかなかった。ストライクが入らなくて動揺した。力みすぎてしまいました。昨年秋の神宮大会から肘が少し悪かった」
チームとしては負けたが、「東の松坂、西の新垣」と呼ばれた怪腕ぶりは発揮した。4イニングで7奪三振。直球も自己最速を2キロ上回る147キロをマークした。当時、直球とスライダーだけだった。甲子園マウンドの最初のアウトは143キロ直球空振り三振。その後は、スライダーの空振り三振が2で、残り4個はいずれも直球の見逃し三振だった。5回二死満塁での見逃し三振と、センバツ最後の打者となった見逃し三振の球が最速147キロ。何よりも打者19人に対してヒットはわずか1。それも三塁への内野安打だった。4四死球と2失策、1盗塁で3点を奪われた。投手としては典型的な自滅だったが、「怪腕」の大器の片鱗を見せるには十分だった。
それでも、このセンバツで、松坂は高校球界初めて150キロの大台をマークし優勝したのとは正反対だった。「あっけなく負けてしまった。悔いが残る負け方だった」。現実だけが残り、新垣は松坂との差が離れていくのを感じるだけだった。
(取材・文=浦田 由紀夫)