松坂大輔の甲子園決勝ノーヒットノーランから23年。覚醒のきっかけとなったサヨナラ暴投【前編】
高校時代の松坂 大輔(横浜)写真:日刊現代_アフロ
松坂 大輔は横浜高校時代にはエースで4番として、同校春夏連覇の立役者となっている。20世紀も終わりに差し掛かった1998年(平成10)のことである。プロ入り後は、新人時代に当時オリックスのイチローから三振を奪って、「自信から確信に変わりました」の言葉を残して西武~MLBのレッドソックスなどで活躍。また、侍ジャパンのエースとしても活躍したのは周知のとおりである。その後、日本球界にも復帰してソフトバンク、中日などにも在籍。
松坂が夏の甲子園で優勝してから、23年が経った8月22日、松坂の高校時代を振り返ってみよう。
松坂を大成させるきっかけとなった2年夏準決勝のサヨナラ暴投
松坂 大輔の存在は、横浜高校に入学する前から関係者には、よく知られてはいた。
ただ、球の速さはあるものの、制球にバラつきがあるということや、やや太りやすい体質であるということも指摘されていた。それだけに、どこまで大成するのかということも、いくらか疑問視もされていた。
その松坂が、大きく成長するきっかけとなったのは2年生夏の神奈川大会準決勝の横浜商(Y校)戦での敗戦だった。2対1でリードしていた横浜だったが、9回までで14安打を放ちながらも2点というややチグハグさも目立っていた。それでも何とか1点リードであと1イニング。しかし、この春、センバツ出場を果たしているY校は粘る。一死二、三塁として8番阿部は一、二塁間を破って同点。さらに9番途中出場ながら器用な岡田を迎えて、横浜バッテリーはスクイズ警戒。
小山 良男との2年生バッテリーの横浜、ここで気負いが出てしまったか、三塁走者の動きに少し慌ててしまった。松坂のウエストボールは高く外れすぎて暴投になって、Y校の三塁走者は小躍りしてホームイン。サヨナラとなった。
この負け試合がその後の松坂 大輔を作り上げたとも言われている。夏の練習では、制球力を磨くとともに、徹底的に走り込んで下半身を強化するとともに、精神面も鍛えた。
新チームとなったが、松坂と小山のバッテリーをはじめ、主砲の後藤 武敏、小池 正晃ら主力が残った横浜は新チーム段階から注目されていた。
ハマの二刀流と言う名にふさわしい活躍
新チームの横浜はその期待にたがわぬ進撃を続けていくことになる。秋季県大会では準決勝でY校に雪辱すると、その勢いでそのまま県大会優勝。関東大会も制して翌年のセンバツを確実にする。さらには、この年は8校出場で秋季大会を終えていない四国地区と近畿地区以外は秋季地区大会優勝校が集合した明治神宮大会も、決勝で新垣 渚を擁する沖縄水産を下して優勝。ここから、松坂大輔と横浜の無敗伝説が始まっていく。
第70回センバツ大会で横浜は初戦では現報徳学園監督の大角 健二捕手が主将を務めていた報徳学園に6対2で勝利。2回戦では村田 修一のいた東福岡を、準々決勝では郡山を連続完封して準決勝はPL学園。この試合も、横浜は3対2と競り勝つのだが、今思えば、このセンバツでのPL学園との対決は、夏の伝説の試合への助走だったとも言えるのだろうか。
そして前評判通りに決勝進出した横浜は、決勝では関西甲種商時代の1929年以来69年ぶり出場となって話題になっていた関大一に3対0完封勝ちして25年ぶり2回目の優勝を果たした。関大一のエースはその後、松下電器(現パナソニック)を経て千葉ロッテ入りし、DeNA、阪神などでも活躍する久保 康友だった。
ほぼ、盤石の強さを示しながら優勝を果たした横浜。これで、松坂の評価はグッと上がっていった。
センバツ王者の横浜は、春季県大会は松坂がほとんど投げることなく優勝している。
しかし、こんなシーンがあった。3回戦の柏陵との試合。6対0で迎えた5回の一死満塁という場面で、松坂が代打で登場。強烈な打球が三塁手を襲い、三塁手はグラブごと持って行かれてしまい、手首を抑えていた。これが2点打となって、その後も横浜は得点を重ねて結局5回コールドゲームとすることになる。その打球の強さに松坂の非凡さを見た。
松坂は、大会でも通常は4番に入っていた。エースで4番、今だったら“ハマの二刀流”とか称せられていたところでもあろうか。
(取材・文=手束 仁)