[1]記憶にない大きな地震
[2]高校野球で被災地へエールを送り続ける
新型コロナウイルスの影響で、各地区大会の春季大会の開催中止も相次いでいる。また、当初3月19日から開幕予定の選抜大会の開催可否も本日11日に決まる。そんな中、年々、人々の記憶から少しずつ薄れかけてしまっている、ちょうど9年前の2011年3月11日に起きた東日本大震災のことを今日は改めて、振り返りたい。
今回は、仙台育英で高校3年間を過ごし、現在は山形県・九里学園野球部を指導する高橋左和明監督に、2011年3月11日当時のお話を聞かせていただいた。
記憶にない大きな地震

被災地の様子 ※写真提供=高橋左和明監督
震災当時は、九里学園でちょうど授業をしていたという高橋監督。「2年生の特別授業を担当しておりましたが、九里学園がある米沢市は普段あまり大きな地震が来ないんです。それが、かつて経験したことのないほどの地震で、本当に驚きました」と当時を振り返った。
宮城県石巻市雄勝町(吸収合併される前は桃生郡雄勝町)で生まれ育った高橋監督は、幼いころに宮城県沖地震を経験した。「すごく揺れたのは覚えています。ただ、東日本大震災は、校舎の3階にいたこともあったかもしれないですが、『大変なことになった』と瞬時に思いましたね」
揺れが収まるまで生徒たちを机の下に潜らせて安全を確保。その後、校舎の破損確認や、生徒たちの安否確認に追われた高橋監督。野球部の選手たちは、練習のためにすでに自転車で15~16分かかるグラウンドへ移動をしていたため、他の先生に部員たちを呼び戻すようお願いをした。
「米沢市とその近辺の地域や市の被害は大きくなかったですが、停電があり電車が使えない状況でした」そのため、学校の高橋監督自らバスを運転し、生徒たちを自宅もしくは生徒の最寄りの駅に送迎した。
この震災により、部活動は3月末まで活動休止となったが、それ以上に気がかりだったのが地元・石巻市の状況だった。
「実家は陸の孤島みたいなところで人口が少なかったんですが、情報がなかなか入ってこないし、両親とも連絡が取れませんでした。さらに道路が震災で寸断されてしまい行くこともできない状況で、両親が生きているのかもわからなかったです」